皆さんこんにちは。
今年も残すところあと3カ月となりました。
つまり、3か月後はもうお正月なんですよね。
でもまだ夏のようなこの気候からは全く想像がつきませんね…
こんなおかしな気候にも関わらず、この時期…若干遅れましたが…ちゃんと彼岸花は咲きます。
人間は暑い暑い、と不平ばかり言いますが、「それがどうした」とばかりに黙って咲く彼岸花をみていると
「凡夫」と言われて当たり前なんだな、と反省させられます。

先月は熊本の善教寺で「法話セッション」を開催しました。
これは、私たち僧侶が普段から行っている法話が一方通行になっていないか?どのように伝わっているか?
を確認したかったからです。
実は昨年、熊本のとあるお寺さんにお招き頂いて法話をさせて頂いたのですが、法話を終えて控室で休憩して
いた私のところに門徒総代さん数名が来られたんです。
そして「ありがとうございます!やっとホンネの話が聞けました。正直、他のお坊さんの話はきれいごと
ばかりで、全然心に入って来なかったんですが、今日はホントに納得できました」と言われたんです。
これを聞いて私は驚きました。
なぜなら「他で私の話も同じように【きれいごと】【何を言ってるのかわからん】って言われてないか?」と
思ったからです。
法座ではなかなか手を挙げて質問や意見は出せませんからね。
なので、善教寺の行事に来て下さっている方数名にお越し頂き、きちんと話のキャッチボールが出来る形で
「法話セッション」を開催しました。
この様子をご紹介するページも用意しましたので、もしお時間があったら、ご覧ください。

→click ! 法話セッションの様子


さて、今月の法語「朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり…」は、本願寺中興の
祖と呼ばれる本願寺第八代住職「蓮如上人」の書かれた御文章というもので、全国のご門徒様達や僧侶達に
宛てたお手紙です。
真宗大谷派(東本願寺)では「お文(おふみ)」と呼ぶそうです。
で、今月の法語は多くの手紙の中の第五帖にある「白骨章」と呼ばれるものです。
これは、葬儀などで僧侶が少し変わった節で拝読するので、お聞きになられたこともあるかと思います。
私も葬儀で拝読するのですが、なにせ室町時代の言葉をそのまま拝読しても、一般の方々には伝わりにくいので
敢えて現代語訳で拝読させて頂いています。

【白骨章】
さて、人間の定まりない有り様をよくよく考えてみますと、およそはかないものとは、この世の始めから終わりまで
幻のような一生涯であります。
だから、人が一万年生きたということを聞いたことがありません。
一生は過ぎやすいものです。
末世の今では、いったい誰が百年二百年と身体を保つことができましょうか。
私が先か、人が先か、今日かもしれず、明日かもしれず、おくれたり先立ったり、人の別れに絶え間がないのは、
草木の根元にかかる雫(しずく)よりも、葉先にやどる露よりも数が多いといわれています。
だから、朝には血気盛んな顔色であっても、夕方には白骨となってしまう身であります。
現に無上の風が吹いて、二つの眼がたちまち閉じ、一つの息が永久に途切れてしまえば、血色の良い顔も色を失って
桃や李(すもも)のような美しいすがたをなくしてしまうのです。
その時に、家族や親族が集まって嘆き悲しんでも、もはや何の甲斐もありません。
そのままにはしておけないので、野辺の送りをし火葬すれば、夜半の煙となってしまい、ただ白骨が残るだけ。
あわれという言葉だけでは言い表し尽くすことができません。
人間のはかないことは、その寿命が老いているから先、若いから後、などということは定まりの無い境遇なの
ですから、どのような人も早く後生の一大事、この世と縁が尽きた後のことを心にかけて、阿弥陀仏の救いを
たのみにして、お念仏するべきものなのです。
あなかしこ あなかしこ

…私たちは必ず死にます。
そして、それは突然にやってきます。
この短い、まさに夢まぼろしのような人生で、この世と縁が尽きる順番も知らされません。
朝には元気いっぱいな様子でも、死んでしまえば火葬されて骨になるだけ。
そう考えると、普通は「人間の一生とは何てはかなく、虚しいものなんだろう…」と感じてしまいます。
そんな人生を目一杯エンジョイしよう!と張り切っても、でも結局死はやってきます。
それだけだと「やり切った!生き切った!もう心残りは無い!」と死んでいける人って、居ないんじゃない
でしょうか。

後生の一大事…生きた後のことを「後生」と言いますが、つまり死んだ後自分はどうなるのか?というのを後生の
一大事と言います。
私たちが最も気になる大問題って、これですよね?
年金いくらもらえるか?とか、物価高はいつまで続くのか?なんて事より後生の一大事、大問題の解決をしていか
なければ、やはり自分の人生とは、ただ生きて、ただ死んでいく、というものになりかねません。
そんな危うい生き方をしている、実はとても弱い私たち衆生を「必ず救う!」と願い立たれた阿弥陀さまは、その
本願力によって既に私たち衆生を救い、もう六道輪廻で生き死にを繰り返すような虚しい命のループから外し、
お浄土で仏としての永遠のいのちを授けてくれる手立てをして頂きました。
すでにその手続きは済んでいるのです。
ですから、私たちの命は、ただ生まれ、ただ生きて、ただ死ぬ、という虚しい命などではなく、如来さまより賜り
たる、浄土往生への道を歩む命だったんです。

宗祖・親鸞聖人の書かれた和讃に

本願力にあひぬれば
むなしくすぐる人ぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

というものがあります。

本願力=阿弥陀さまのお救いに出遭ったのならば、
虚しく人生を過ごす人はいない。
私の生きる全ての場所に、阿弥陀さまの功徳という宝が
まるで海の水のように満ちて私を包んで下さり
私の抱える煩悩という濁った水など、ものともしない

というみ教えです。l
普段、様々な心配事を抱え、「どうして私は…」「どうしてあの人は…」と怒りを覚え、そして自分一人が不幸で
あるかのような考えを持つのが私たちです。
でもそれは、頑張って生きている、という証なんです。
ですから、阿弥陀さまはそんな私たちを救わずにはいられなかったんです。

私たちはありがたくも阿弥陀さまのお救いに出遭い、「南無阿弥陀仏」のお念仏によって「既に救ってあるぞ」と
いう阿弥陀さまの声を聞き、自身の命の大問題を既に解決して頂いている事を知る…そんな人生のどこが虚しい
ことでしょうか?

現当二益(げんとうにやく)という言葉があります。
これは現世利益(げんぜりやく)と当来利益(とうらいりやく)のことですが、当来は死んだ後のことで、私たち
がこの世と縁が尽きた後に阿弥陀さまの救いによってお浄土で仏さまになることのできるご利益。
そして、現世利益は、後生の一大事は既に解決済みであるからこそ、何のわずらいも無く、自分の命を自分らしく
目一杯生き抜き、そして感謝と歓びの中で暮らしていけるご利益のこと。

生きていれば、細々といろいろありますよ、誰にでも。
でも、どうにかなるんです。
いや、どうにかしていけるんです。
なぜなら、阿弥陀さまと共に歩んでいる、もう何も怖れない、怖いもの知らずの人生なんですから。
本当にありがたいことです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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