
皆さん、こんにちは。
善教寺・住職の西守です。
私は普段から善教寺ではもちろんのこと、定例布教で他のお寺さん
などでも法話をさせて頂いています。
お聴聞して下さる皆さんは、笑顔で見守って下さり、そして
「うん、うん」と頷いても下さいます。
でもこれは、私達の方がお育て頂いているわけで、決して納得と理解
だけのリアクションでは無い、とも思っています。 |

法座では、僧侶または布教使がお話をしていくわけですが、その中で
疑問なことや「え?」ということも少なからずともあるかと思います。
そして法話者はそれに気付かず、ただ気持ちよく話をしたところで
伝えたいことがきちんと伝わっているのかは確認できません。
またこういう法座の場では質問や意見なども、正直出しにくい空気が
あるかと思います。 |

悪人正機説ってご存知ですか?
これは親鸞聖人の教えの中で、
「善人なほもって往生をとぐ。いはんや悪人をや」という言葉があり
ます。
意味は「善人ですら往生をとげるのです。ましてや悪人が往生を
とげられないことがありましょうか」ということですが、これを
そのまま受け取ってしまうと「悪人ですら往生をする、救われるのだ」
となってしまいます。
だから、「どうせ救われるのだから、したい放題、やりたい放題で
良い」と勘違いする人が当時たくさんいた、とされています。
ここでいう善人とは、「阿弥陀如来の救いにたのまず、自力で往生
しようとする信心の無い人」という意味なんです。
悪人とは、自力修行すらできない我ら衆生のことを指します。
自力往生をしようと我が身の善をたのむ、いわば傲慢な心を捨てて
阿弥陀如来に全ておまかせする心を持てば、そんな自らが善人であると
思う人でも往生できる。
そうであれば、自力で修行すらできない悪人ですら、往生をとげられる
はず。
なぜなら、阿弥陀如来は「我が願いを信ずる者は全て救う」と誓われて
いるからです。
そこがきちんと伝わらないと、阿弥陀さまの救い、お釈迦様の親鸞聖人の
救いが意味を為しません。 |

そこで、僧侶ではなくお聴聞頂く皆さまを中心として仏さまの話を
したらどうなるか、という今までになかった法座を開催してみました。
あまり大人数だと意見も出にくいので、今回は善教寺の行事に参加
して下さる仲良しグループの方達にご参加頂き、まずは仏さまのお話から
スタート。 |

すると、不思議なことが起こりました。
皆で対話していく内に、自身の辛かったこと、抱えている問題
なかなか人には言い辛い赤裸々なことも普通に話が出て、そこで仏さまの
救い教えがエッセンスとなって皆に伝わっていきました。
中には涙を流して辛さを吐露する方もいらっしゃいましたが、今度は
他の方がその人に優しい言葉を掛け、掛けられた方はまた別の方に
思いやりのある声を掛け…と話がどんどん一つの方向に向かって行く
んです。
そこで私は「苦」というトピックから、お釈迦様の四法印、四諦八正道
へとお話をさせて頂き、最後は皆さんとてもスッキリして帰っていかれ
ました。 |


この法話セッションをしてみてわかったことは、お聞き下さる方達が
今一番聞きたい仏法、ご法義を話すことが真の法話なんだ、という
ことがわかりました。
いつもは法話者がしたい話を一方的にして終わります。
それでも良いのですが、この法話セッションスタイルだと、まず
皆さんの求める心の救いは何なのか、どこに安心を求めているのか、の
輪郭をしっかり掴み、そこを中心に法話を組み立ててお話することが
出来ます。
結果、一番皆さんの心に伝わる話になる、ということです。
これからも法話セッションを続けていきますので、また次の機会にぜひ
ご参加下さい。
合掌
善教寺住職 西守騎世将(釋 一 心) |
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