皆さん、こんにちは。
五月となりました。
今年も既に半分近くが過ぎました。
実は私、歳を重ねるにつれて諸々失敗が増えて来ています。
自分の未熟さをまず反省しながらも、きちんと自分を保とうと頑張っていても、気を付けていても
望まない方向に持って行かれると言いますか、「なぜあんなことに…」と考え、落ち込むことがあります。
老いだから…などという事ではなく、説明が出来ない…自分でもわからないこと、ホントありますね。
ただ思うのは、今まで大事に至らなかったのは、私は本当に仏さまにお護り頂いているからなんだ…
ということです。
ひたすら御恩報謝のお念仏しかありません。
さて、今月のことば、「ありがとう、ごめんなさいは、今すぐ言いなさい。明日言えるとは限らないから」…
これを見て、皆さんどうお考えになられましたでしょうか。
「今は言える気分じゃないから、明日言おう、と思っていても、明日もモジモジして言えないかも」とも
取れますね。
まあそれも間違いではないのですが、今回はもう少し掘り下げて諸行無常という言葉について少し考えて
みたいと思います。
私は最近ご法話の中で、人の人生の長さについてお話させて頂いています。
ホワイトボードに横一直線に線を引き、右端の起点を「生まれた時」、左の終点を「死」とします。
で、この線を指して「皆さんは今どの辺りにおられますか?」と聞きます。
すると大抵、左の終点に近い側から少し長さを取った辺りを指して「このへんですか?」と聞くと、
うなずかれます。

そして「では、この長さの根拠って何でしょうね?」と問うと、皆さん首をかしげます。
さらに「この余白(余命)の長さには根拠はなく、むしろ希望じゃないですか?」と聞くと、大勢の方が
笑いながら「そうそう」とまたうなずかれます。
まあ、そうですよね。
人の命はいつ終わるか誰にもわかりませんから。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は9歳の春、京都の青蓮院(しょうれんいん)というお寺でご出家なさいました。
その時、聖人の叔父であられる日野範綱(ひののりつな)卿と共に青連院を訪れたのですが、到着時は
夕暮れ時。
後に天台宗の座主をつとめられた当時の青連院主・慈鎮(慈円)和尚は「今日はもう時間も遅いので、
出家得度の式は明日行おう」と言われたのです。
しかしその時、まだ幼かった親鸞聖人は次の和歌を詠み、慈鎮和尚に思いを伝えられました。
【明日ありと おもう心の仇桜(あだざくら) 夜半に嵐の吹かぬものかは】
「今、満開で咲き誇っている桜の花も、今晩嵐となれば花は散ってしまうでしょう」という意味です。
「仇桜(あだざくら)」とは、はかなく散ってしまう桜のことを言います。
これを聞いた慈鎮和尚はとても感嘆され、その日の夜に得度出家の儀を行いました。
これに倣って、浄土真宗本願寺派では今でも得度式は日が落ちて暗くなってから、蝋燭の灯だけで得度式を
行っています。
私は平成28年12月に得度式を受式しましたが、とにかく寒くて寒くて震えていたのをよく覚えています。
さて話を戻しますが、親鸞聖人は自らの命が明日も当り前にある、とは考えていなかったのがわかります。
時は、今から850年前の平安時代の末期です。
今のように全ての物やシステム、体制が整っている時代ではなく、人が突然亡くなってしまうのは当り前の
時代でした。
故に、我が命明日は無き、と考えるのは普通の時代でした。
だからこそ、明日の得度では間に合わないという親鸞聖人の切実な思いと願いがあったのではないかと、私は
思います。
今月の言葉、「ありがとう、ごめんなさいは今すぐ言いなさい。明日言えるとは限らないから」も同じ意味
思いなんです。
明日もモジモジして、恥ずかしくて、照れくさくて、面倒くさくて、言えない…のであれば、それならそれで
ある意味幸せです。
なぜならば、モジモジして、恥ずかしくて、照れくさくて、面倒くさくて、言えない私は、それでも生きて
いるからです。
しかしもっと大きな意味があります。
ありがとう、ごめんなさい、という相手が明日も存命しているのは決して当り前ではないんです。
それは、大変お世話になった人、とても大切な人、いつも自分のことを気に掛けてくれている人、なはず
です。
いざ「ありがとう ごめんなさい」を伝えようとしても、その大切な人がお亡くなりになられていたらたら
どうしますか?
おそらく一生後悔するでしょう…
そして、それを伝える自分自身だって明日も当たり前に生きているとは限りませんから。
実は先日とある方の葬儀がありました。
近所に住まれている方の奥様が突然お亡くなりになられたんです。
ご主人にお話をお伺いしたところ、前の夜まで元気でそのまま床に入られたそうですが、朝になって起きて
こなかったので起こしに行ったら布団の中で冷たくなっていたそうです。
死因も不明だそうです。
あまり知られていませんが、こんな形でお亡くなりになられる方は結構多いんです。
私の知り合いの僧侶のご夫婦は、夜寝る時に「おやすみ」に続いて「明日も会えるといいね」と言って
眠るそうです。
そして朝起きると「おはよう」に続いて「今日も会えたね」とお互いに言い合うそうです。
私もここ最近は朝目覚めたら心の中で「今日も生かされました。ありがとうございます」と仏さま方に感謝し
てを合せています。
私たちは、明日も明後日も来週も来月も来年も、当たり前に生きているかのように考え、そして様々な予定
も計画します。
「生きていること…」それが当たり前になっているからです。
でも実はそうではないんですよね…わかってはいるけど、そこにフタをして生きてますもんね。
それが私たち衆生です。
でもやがて人の命は必ず尽きます…例外なく、誰にでも訪れる事実です。
まずはそこをしっかりと理解し、目をそらさず、きちんと自分の中で受け入れておかなければなりません。
だからせめて、後に後悔しないように、大切な人には「ありがとう」「ごめんなさい」は今すぐ言うべき
なんです。
明日は当り前には来ない、を本当に理解すれば、新しく迎えた朝がどれほど有り難いことかわかります。
今、生きている内にしておくべきこと…阿弥陀さまより信心賜り、如来さまの仰せを聞き開くこと。
そして感謝と謝罪の気持ちを相手に伝えておくこと。
これだけは本当に今の今、しておかないと、自らの命尽きた後すらも後悔することになります。
だから「明日やろうは、馬鹿野郎!」たる所以なんです。
これを読まれたら、いろんな方々の顔が浮かんだんではないでしょうか?
なら、今すぐに出来る形で「ありがとう」「ごめんなさい」を伝えて下さい。
そして、そこに気付かせて下さった阿弥陀さまの救いを信じ、仰せを聞き開き、御恩報謝のお念仏を申す
人生を歩まれて下さい…もし、明日も生きていられたのなら…
これを平生業成(へいぜいごうじょう)と言います。
親鸞聖人の教えの中核です。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一 心(西守 騎世将)