皆さんこんにちは。
あの地獄のような暑さも少しはおさまりましたが、これまでの酷暑、猛暑で体調を崩されていないでしょうか。
今度は台風、大雨による被害があちこちで発生しています。
大雨で車が水没しそれが原因で命を落とす…そんな今まで考えられないようなことも起こっています。
先日も名古屋市で大雨被害が起こりました。
私の父は名古屋市守山区の施設で穏やかに暮らしているのですが、ここは北に庄内川、南に矢田川という大きな
河川に挟まれています。
そして先般の大雨で南の矢田川が一部が決壊、災害レベル5の特別警報が発表されました。
もう既に近隣の避難所に避難はしているだろうな、と思っていたのですが、高齢の方達ばかりですのでなかなか
動けず、垂直避難…とは言っても全員二階に行くだけですが…していたそうです。
でも一階は浸水してしまったそうですが、まあそれで済んで良かったです。

近年の気象現象は「極端」です。
でもそれは人間都合であり、自然はそんな人間に合わせてはくれません。
災害は「逃げる」しかないです。
気象情報を多く取り、早めに計画を立てて避難をされて下さい。
一番危ないのは「いつも何も起こらないから、今回も大丈夫でしょう…」という根拠の無い楽観視」です。
避難は「無駄になった」ではなく「早めに行動出来、そして何もなくて良かった」とい前提ですべきですね。
どうぞこれからも油断することなく、御安全にお過ごしください。
(ちなみにこの「油断」も仏教用語です。いつかこれにも触れて行きたいと思います)

さて今月の言葉です。

試練とは
人を必ず育て導き
時には修正する
はたらきがある


この法話を御覧になられている皆さんの中で、大変失礼ではありますが試練を味わっていない方は皆無だと
思います。
過去、そしてひょっとしたら現在進行形で試練を味わい、辛い思いを経験されているからこそ、この仏さまの
教えに関心を持たれ、このページをご覧になられているのだと推察します。
誰でも出来ることなら試練は避けたいですよね。
だって、辛いし大変ですから。
出来ればずっと平穏で生きて行きたい…でも試練の連続なのが人生でもあります。
試練って英語で何て言うかご存知でしょうか?
試練はTRIAL(トライアル)、またはTEST(テスト)と言います。
(もっと過酷でマイナスイメージで伝える時はORDEAL-オーディールとも表現します)
トライアルってよく聞きますよね?
タイムトライアルとかトライアルキット、無料トライアル、トライアル期間…そういえば低価格スーパーで
トライアルっていうお店もありますね。
お試し…的な意味です。
テストはわかりますよね?
これもトライアルと同じ意味で試す、評価、検証といった意味です。
つまり試練って、人の前に急に大きな壁が出来、これを如何に乗り越えていくのか、というのが試されている
検証されている、評価されている、ということですね。

私もしょっちゅう大なり小なり試練と戦っています。
そしてなぜか試練が単体ではなく束になってかかってきます。
くじけそうになりますが、「神仏はその人が持てない荷物は背負わさない」という以前聞いた言葉を信じて
「絶対に乗り越えてやる!」と諦めずひたすら試練と格闘しています。

でも最近特に思う事があるんです。
全力で物事に取り組むと、やればやっただけの成果は出ます。
努力は裏切りません。
一旦出来るようになると、困難であったそれらはとても簡単なことに変わります。
しかし、これと同時に難しかったことが簡単に当たり前になったので、まあ大抵、人は調子に乗ります。
喜びも感謝も忘れます。
更に「あれだけ頑張って成功したのだから、頑張った自分は多少のことをしても許されるだろう」という
錯覚に陥ります。
ここから横柄になったり、謙虚さを失い、場合によっては法を犯してしまうことだってありますが、それを
「自分だから許される」と思い込んでしまいます。
何せ、錯覚してますから。

加えて、頑張った人のもう一つの錯覚…見下し現象も現れることがあります。
凄く頑張った(頑張っている)人は「自分は世の中の誰よりも頑張っている」という錯覚にも陥ります。
なので、他の人が「なんでこの人は自分と同じように頑張らないのか?」と思えるようになり、そして
「頑張らない人」レッテルを勝手に付けて見下してしまいます。
そのレッテルを貼られてしまった人は不幸ですよ。
なぜなら「頑張っていない人認定」を勝手にされてしまっているので、何かしらのミスや粗相をしようものなら
特大の雷が「自称・頑張っている人」から落とされます。
つまり、頑張っているという自覚を持っている人は、謙虚と寛容さという大切な心を失い易いのです。
謙虚さが消えるとこうなります。
頑張って、頑張って、頑張った人が何かをやり遂げた時、それと引き換えに謙虚さと感謝を失いやすいのです。
ですからやがて、何かしらの試練が目の前に現れるんです。
「好事魔多し」って、こういうことなんです。

でも、それは「罰」ではありません。
試練が訪れるのは、気付かず歪んでしまった自分を軌道修正するためなんですね。
わかりやすく言えば、体を酷使して腰が痛い、肩が痛い、となった時に整体に行って矯正してもらいますよね。
それと同じです。
いわば心の矯正ですね。

それと最近もう一つ思う事があります。
「自分は使いもしない余計な物をたくさん持っている」自覚を持つべきです。
服や靴、様々なコレクション、使いもしない道具、読み終わった本、などなど。

私の家内…善教寺の坊守は、若い頃、とあるブティックで働いていたそうです。
実は「ブティック」と呼ばれる洋服屋さん、今では日本全国にありますが、その第一号は熊本で出来たお店なの
ご存知でしたか?
家内はその店の最初のアルバイト店員さん。
言い換えれば、日本でのブティックのアルバイト店員第一号さんなのだそうです。
なので洋服や靴、売れるほど持っていました。
部屋も「商品倉庫か?」というくらい洋服だらけ。
ずっと「これ、殆ど着ない服でしょう?処分したら?」と言い続けてきました。
おそらく多くの皆さんも「あるある」だと思うのですが、こうなると「そのうち着る」「そのうち古着屋さん
に買い取ってもらう」「そのうち誰かにあげる」って心理が働きませんか?
でも「そのうち」や「いつか」は深層心理で「未来永劫無い」の現れなんですよね。
執着があるから、実は不要な物でも捨てると勿体ない心理が動くので「そのうち」「いつか」という言葉で
自分をも誤魔化すんです。

私もそうです。
家内ほど洋服は持ってはいませんが、今はしていない不動産業の免許だとか、忙しくて全然行けてないクレー
射撃の免許と鉄砲だとかを大切にしています…いやしていました。
どちらも国家資格で取るのは大変です。
そして不動産業免許は5年更新、クレー射撃の免許は3年更新。
やりもしないのに、その都度免許更新までしていましたが、さすがに「未来永劫、無いな」と気付き、今年に
入って不動産業免許もクレー射撃の免許も返納し、鉄砲も手放しました。
さすがに勇気が要りましたが、手放したらスッキリしました。
心も軽くなりました…結局心の奥底でずっと気になって重かったのだと気付いたんです。
ホント、執着と言う煩悩でした。

そんな私を見て家内も「売る」とか「人にあげる」とか言っていた着ない服や靴を処分し始めました。
部屋はめちゃくちゃ広くなり、スッキリしました。
結局部屋を占領していた洋服たちは家内の頭の中でも悩ます要因として占領していたんですね。

話を戻しますが、試練は次々にやって来ます。
それだけ自分が修正されていってる証拠でもあります。
そこから逃げないで試練を乗り越えることが出来た時、当然様々なスキルも上がりますし人として成長も
します。
その度に心を占めていた余計なものも同時に手放しますので、新たに大きなものを得るんですね。
「手を放す、軽くなる、満ちていく…」という歌詞の歌がありますが、まさにそういう意味なのだと思います。

ですから、試練が与えられるのは神仏から決して見放されているわけではない証でもあります。
私たち凡夫はどうしても自分が間違っていること、道を逸れていること、大切なものを忘れていること、に
気付かない、気付けない生き物です。
これを仏教で「愚痴」と言い、人の愚かさを説きます。

宗祖・親鸞聖人はご著書「教行信証(顕浄土真実教行証文類)」の信文類において
「仏願の生起本末を聞きて 疑心あることなし これを聞(もん)といふなり」と説かれています。
仏願の生起本末とは、わたしたち一切衆生を必ず救う!という阿弥陀さまの願いがどのように起こり(生起)
その願いが立てられ(本)、どうなったか(末)ということです。
放っておいたらとんでもないことをしでかし、危うい生き方をする凡夫であるわたしたちを、もう二度とこんな
迷いの世界に生きることが無いように救いたい、と願い立たれ、この世と縁が尽きた私たちが次に生まれる真の
やすらぎのある場所=極楽浄土を建立され、そこで悟りを得た仏として仕上げ生まれさせて下さる。
そしてご自身は南無阿弥陀仏というお念仏の仏さまとなって、まさに声となってその救いが成就したことを
なまんだぶ、なまんだぶ、と届けて下さっている。
これが仏願の生起本末で、もっとわかりやすく言えば「南無阿弥陀仏」というお念仏そのものに阿弥陀さまの
願いと救い、ご修行された功徳の全てが込められているんです。
ですから、仏願の生起本末=一切衆生を救う願い=南無阿弥陀仏を聞いて、阿弥陀さまの救いを疑う心は微塵も
ない。これを「聞(もん)と言うのです」と親鸞聖人は仰せになられています。

「私は疑うことなく救いを信じている」と思うのは、実は疑いがあるからそう思えるのです。
阿弥陀さまのお救いは私たち人間にはとうてい理解できない大きな力です。
それを理解した体で「疑い無し」と思うのは既に自らの計らいが混ざっています。
信じて疑わない状態とは、実はそこに対して何も考えも及ばない状態です。
だって、信じて疑っていませんから考える、思う必要すらないのですから。
太陽は東から昇って西に沈みます…これ、毎日のことで、誰もが知っています。
でもこれを毎朝「よし!東から昇った!」って考えますか?
考えませんよね…だって信じて疑いすらないですから。
阿弥陀さまの救いは既にわたしに至り届き、私の口で称える「南無阿弥陀仏」のお念仏は「既に救ってあるぞ」
というお呼び声。
ですから自然と「南無阿弥陀仏、なんまんだぶ」と私のはからいなく自然と口からお念仏が出て、それこそが
阿弥陀さまからの「もう救ってあるぞ」の声をお聞かせ頂くわけですから「聞(もん)」という、ということです。

お救いは私に至り届き、救済されているのですから、あとは真っ直ぐ生き抜くだけ。
それでも間違うわたしですからこそ、「試練」という修正機会を与えて下さり、今ある命を更に生きやすくして
下さっているからこその「もう救ってあるぞ」なんですね。
これこそが「阿弥陀さまのお育て、おはたらき」です。

本当にありがたく尊い阿弥陀さまの慈しみのお心でございます。

南無阿弥陀仏

南無阿弥陀仏


善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一 心(西守 騎世将)







 


 
 phone 096-355-2015 熊本県熊本市中央区東阿弥陀寺町41
 

Copyrights (c) 2019 菩提山・善教寺 All rights reserved.