皆さんこんにちは。
今年の夏も例年になく暑い…いや、熱いですね。
「日本で一番涼しいところが沖縄」だそうです。
エアコンも能力アップされたものが今後必要になって来るでしょうし、農作物も従来通りの栽培方法では
育たなくなっていくでしょうね。
いろんな意味で転換期が訪れて来ているような気がします。
皆さまも、どうかくれぐれも熱中症にはお気を付け下さい。
七月には9年ぶりに熊本の善教寺にご本尊・阿弥陀如来さまと親鸞聖人がお戻りになられました。
新しい本堂は狭いですが声がとてもよく響き、またエアコンもよく効きますのでとても気持ちよくお勤めが
出来ます。
今年の8月のお盆には、お盆参りの為に熊本に滞在しておりますので、どうぞお気軽に善教寺にお参りに
お越し下さい。
また、ご自宅でのお参りをご希望の方は、まだ枠が空いている日がありますので、善教寺にご連絡下さい。
さて、今月の法語です。
「自分を善人の側に置いている限りは、愚者としての自分は見えてこない」…これは西本願寺第二十四代門主
をお務めになられた釋即如・前門主(大谷光真氏)の著書「愚の力」の中の一説です。
以前もここでの法話の中で「善人、悪人」についてご説明させて頂きました。
まあ、ざっくりと簡潔にご説明させて頂くとすれば、自分は常に正しい、と思っている人は善人。
自分は不出来で、失敗はいつも自分のせい、と思っているのは悪人。
で、皆さんは「善人ですか?悪人ですか?」という問いがあったとすると、「そのどちらでもない…」という
のが一般的な答えです。
いろんなお寺さんにお招き頂き、法話をさせて頂くのですが、「ご自身を善人と思っている人?」「ご自身
を悪人と思っている人?」と質問しても、まず手は上がらず、皆さんモジモジされてます。
なぜかと言うと、そもそもご自身が善人か?悪人か?…なんて考えて過ごす人は、まずいないです。
そして問われたとしても「善人か?悪人か?」の二択で問われたって、これまたなかなか難しい質問ですから
答えに困ると思います。
私のような凡夫が皆さんのことをあれこれ言うのはおかしな話ですので、私自身のことを申し上げます。
私、西守はここで告白します。
私は「愚者の自覚が無い善人のフリをした者」でした。
実はこれ、一番タチが悪いです。
私たちは「正しい」とされることを習い、そこから外れないように生きています。
そして失敗しないように、ヘマをしないように細心の注意を払い、仕事をし日常生活を送っています。
そこまでしているのだから、失敗は無い…とは言えませんね。
むしろ歳を重ね経験を積んで行っても、いつまで経っても失敗しませんか?
一つ失敗し、二度としないように気を付けていても今度は他の種類の失敗が待ち受けてる。
つまり、人間とは不完全な生き物→故に「凡夫(ぼんぶ)」なんです。
しかし、自分は不完全なくせに人にはあれこれ言う、求める。
私は今も航空の世界で仕事をしていますが、旅客機も小型機も、実は毎回のフライトで大なり小なりいろいろ
やらかしています。
事故や重大な機体の損傷に繋がる失敗も、一歩手前のところで止めることが出来、何事もなかったように
着陸…たとえプロであっても毎回何かしらやらかしてるワケで、表に出てこないだけです。
これの連鎖が事故になるわけですが、これを聞いたら飛行機に乗りたくなくなりますよね…
航空や、医療の世界のような、大きく人の命に関わる仕事をしている現場では「気を付ける」って実はとても
危うく、中身の無い言葉なんです。
だって、気を付けていたのにミスが起こるのに、それ以上どうやって気を付けるのでしょうか?
何をどう気を付けていても、必ずミスは起こります。
なぜなら、人は必ず失敗する生き物ですから。
だって、「凡夫」ですから、仕方がない。
なので、そもそも人はミスをすること前提で危機管理思想を持って、その傷口が最小限に抑えられるような
システムを構築しています。
旅客機って、離陸や着陸はタイヤが胴体から出ていますよね?
じゃないと滑走できませんからね。
あのタイヤの出し入れは、操縦席にあるレバーを上げ下げして操作するのですが、そのレバーの先はタイヤ
の形をしています。
「プロがそんなこと間違えるか?」とお思いになるかもしれませんが、これが間違えるんです。
だって、他にもいろんなレバースイッチがあり、間違えて他のレバーを上げ下げして、タイヤを出し忘れる
ことが頻繁にあったからこそ、世界共通でタイヤ出し入れレバーの先は必ずタイヤの形をしています。
で、さらに機長と副機長が間違いなくそのレバーを正しく操作したか?を確認します。
で、そこまでやってもまだ時々間違えるんです、これが…
何度も言いますが、人間は必ずいろんな失敗をする生き物です。
でも、それは棚に置いて「しかし、他のことは正しさに沿って生きている」…だから悪人ではない。
ちょっと経験があると諸々ある程度はソツなくこなしますから、段々自分は完璧主義になっていく。
そしてそれが自分のモノサシになっていますから、人の失敗を見て「愚かだ」と思う。
それこそが、「愚者の自覚が無い善人のフリをした者」なんです。
自分は常に完璧を目指しているから人よりはミスをしない…なら、全くミスをしないのか?自問すれば、まあ
他の人よりは派手なミスをしない、だから自分は愚かではない…
故に、「
自分を善人の側に置いている限りは、愚者としての自分は見えてこない」のです。
愚者…つまり自分は未だ至らない悪人である、という自覚と前提が欠けていると、結局それが後々自分を
苦しめていくことのなるのではないでしょうか。
もし自分が完璧な善人なのであれば、それは阿弥陀さまの救いの対象にはならないのではないでしょうか。
だって、完璧に生きているのであればもう仏さまに成れるのですから、阿弥陀さまの救いは要りません。
でもどんなに完璧主義であってもそれが正しいとは限りません。
なぜなら、その完璧志向が意図せず人を傷付け、不愉快にさせていることもあるんです。
でも「自分に失敗は無いから」と思い込んでいるので、愚者としての自分は見えてこない。
仏願の生起本末…阿弥陀さまはなぜわたしをお救いになろうとされたのか…それは愚者としての自覚のない、
とても危うい生き方をしているわたしだからこそ、お救い下さる…いや、既に救済しつつあるのです。
故に南無阿弥陀仏のお念仏が自分の声で耳に聞こえてくるのが「我にまかせよ、そのまま救う」なんです。
しかしここで気を付けないといけないことがあります。
「そのまま」と「このまま」とは全く違う、という事です。
阿弥陀さまは、こんな愚者たるわたしを阿弥陀さまの側から「そのまま救う」とお救い下さるのですが、その
救いの対象であるわたしは「なら、このままで…」で良い筈は無いんです。
これ、すごく大事。
だって、愚者の自覚が無い私が不憫で、可哀想で、放っておけなくて、どうしても救いたいと願われる阿弥陀
さまの思いに、「なら自分はこのまま愚者の自覚のないままでいいんだ」では、それは単に居直っているだけ
なんですよね。
世の中で言われる「正しさ」って、本当に正しいんでしょうか?
その正しさって、凡夫たる人間が考えた事であって、所詮誰かのモノサシでしかなく、その正しさも状況や
情勢、年数が経てば「正しくない」に変わってしまいます。
そんないい加減な「正しさ」が果たして本当に正しいと言えるのでしょうか…
つまり、「正しさ」って実は存在せず、その時の都合やトレンド、はたまた政治都合でコロコロ変わっていく
ものでしかないんですよね。
我ら凡夫に真実は存在しないんです。
真実は、仏さまのみにあります。
それが仏さまの大いなる智慧であり、その智慧によって凡夫は救済されていくのです。
その第一歩が、自分は愚者たる一面を兼ね備えた者、という自覚です。
親鸞聖人も「師である法然上人から、愚者になりて往生す…とお聞きになった」とお手紙に記されています。
つまり、愚者こそが阿弥陀さまの救いの対象であったんです。
自分は愚者である…そう考えるだけでスッと肩の力、抜けませんか?
余計なプレッシャーや、背負わなくて良い責任から、開放されませんか?
余計な背伸びなんかせず、見栄なんかを張らず、格好や体裁、人の目や評価なんて全く無用。
「自分らしく生きる」とはそういうことなんだと思います。
そして愚者である凡夫は、愚者として生き、愚者の自覚をもって阿弥陀さまに救われて往く。
ただ、それだけなんですね。
明日から、目の前の景色が変わりますよ。
これが「阿弥陀さまのおはたらき」であり「愚の力」です。
本当にありがたいことにございます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)