皆さんこんにちは。
年が明けたと思ったら、はや二月です。
私は昨年母を亡くしましたので、皆さまへの新年のご挨拶は控えさせて頂きました。
また、インフルエンザが猛威をふるっている状況を鑑み、本年の御正忌報恩講は愛知県の一心庵にて修行し
熊本では行いませんでした。
また、いつも会場をお借りしています熊本別院ですが、職員さん達の勤務体制の変更に伴い、土日に会場をお借り
する事が難しくなりましたので、次回の熊本での春彼岸会法要も、ひょっとしたら中止になるかもしれません。
善教寺は現在概ね外観と住居部分である庫裡は出来上がりましたが、これから本堂部分の工事が始まります。
実際に仏具などを配置しながらの作業となり、加えて自分で補修できる箇所は自分で直しながらの工事になります
ので、まだもう少し時間が掛かるかと思います。
どうぞ今暫くお待ちください。
さて先日、善教寺のご門徒さんではないのですが、同じ浄土真宗のお寺のご門徒である方から相談を受けました。
その方はお父様を亡くされ葬儀をしたのですが、菩提寺であるお寺の住職には以前からその振る舞いや言動に疑問
をもっていたそうです。
なので、法話を聞いても全く心には入って来ない…四十九日法要では、ご故人の名前は間違えるわ、命日も間違え
るわで、参列者からそれを指摘されても訂正も謝罪も無い…これ、どう思われますか?
とのことでした。
そして、どうにも気持ちが収まらないので、苦言を記した手紙を書こうかと思います、と言われていました。
それを聞いて私は「やめておきなさい」とお伝えしました。
手紙で苦言を呈されて改める人であれば、法要の現場で間違いを指摘された時に素直に謝りすぐに訂正し、そんな
不愉快な気持ちにはさせなかったはずです。
むしろ逆効果で遺恨が残る…ましてや菩提寺であればお付き合いは続くのですから、気まずくなるだけです。
私もその話を聞いて、同じ真宗の僧侶として恥ずかしく、そんな住職がいるのか?と腹も立ちます。
でも、人には間違いはあります。
いや、間違えるのが人という生き物です。
その間違えからどう学び、どう改めていくのかがとても大切で、それを「学習」と言います。
一昨年まで私は名古屋空港にある航空会社の安全対策室長を務めておりました。
そして、航空機を飛ばすにあたってどうやってミスを防ぐか、を研究し、パイロットや整備士、地上支援職員に
対して教育をしていました。
航空の世界では、間違い=大惨事になります。
従って、最初から「人はミスをするもの」を前提に安全対策を練っていくんです。
なので「気を付ける」という言葉はナンセンスになります。
なぜなら、人は気を付けていてもミスをするので「気を付けろよ!」というのは「また失敗しろよ!」というのと
同じことなんですね。
大型の旅客機になると、機長と副機長という構成で飛行をしますが、昔は機長の権限と威厳が大きく、機長が
間違いを犯しているとわかっていても、副機長は何も言えない…結局そのまま事故になる、という事が多かったん
です。
これでは二人で操縦していても何の意味も無いんです。
今では、副機長はいくら相手がベテラン機長であってもどんどんミスを指摘することが推奨されています。
むしろ、ベテランほど間違いを犯すものなんです。
あまり公にはなりませんが、大型機、小型機を問わず、毎日パイロット達は大なり小なり何かしらやらかして
います。
だって人間ですもの…
人のミスを指摘するのは大切です。
でもそれは相手にミスを教え、二度と同じミスをしないようにする指摘である事が条件です。
感情に任せ、批判という心持で相手に言えば、それは尖った槍を相手に投げるのと同じですので、むしろ逆効果に
なってしまいます。
その後、私はその方にこうお伝えしました。
「とても残念な法要でしたね。でも、お父さんはお浄土に渡られ仏さまに成られたのだから、名前を間違えようが
命日を間違えようが、そんなことは何の影響もないです。むしろ、自分の法要でそんな気持ちなってお寺の住職に
怒りを持ってしまう結果になった事を申し訳ないとと思われているのでは?」。
つまり、お父さんのことを思ってのはずが、段々その方の感情が中心となっている事に気付いてほしいからです。
そしてもっと大事なことは「人を指摘する前に、自分はどうなのか」を考えると、少なくとも怒りという感情は
起きづらいものです。
今月の言葉「人に言う通りに、自分でも行え」は、お釈迦様の短い言葉での教えをまとめた「法句経」の言葉
です。
これは一見、「身を律して常に自身も完璧であれ」という意味に聞こえます。
しかし私は逆に「自分は完璧では無いのだから、人にあれこれ言わない方が良い」と頂いています。
そして余計なことを言わない方が人間関係にひびが入る事も避けられます。
なぜなら先にも申し上げた通り、人間はミスをして成長する生き物だからです。
それがわかっていないと、普段から他人のミスを指摘していると、いざ自分が失敗をした時にそれを誤魔化そうと
隠ぺいしようとするからです。
つまり傷口を自分でどんどん広げて行ってしまうんですね。
また、普段から人の粗探しをする事が常態化しているので、当然人間関係も良くはなりません。
でも人のミスほど目に付くものはありませんよね。
故についつい批判したくなるのが人情ではありますが、それを「自分でも行え」を思いお越し、グッと我慢。
それが「自己は実に制し難い」という戒めだととらえています。
いや、「身を律して常に自身も完璧であれ」も否定はしませんし、そのような努力も必要です。
でも私はどちらかというと努力よりも「自己統制」に重きを置いて考えています。
ウチの坊守さん…奥様は、よく電気のスイッチを消し忘れますので、以前は「電気!」って指摘していました。
しかし歳を重ねて、ある時から私も「電気!」って言われるようになりました。
奥様は私より4っ上のお姉さんです。
つまり、自分の4年後を見せてくれている先生でもあります。
結局自分は人のミスを指摘できるほどの人間ではなく、ただの凡夫に過ぎない。
そう考えてからは、「電気!」とは言わず、黙ってスイッチを切った方が早いし、お互い嫌な気分にもならない。
そう学ばせて頂きました。
子供叱るな いつか来た道…
年寄り笑うな やがて行く道…
こんな言葉、目にしたことありますでしょうか。
これもお釈迦さまの言葉と同じ戒めだと思います。
人は…自分も含めて完璧では無い。
完璧では無いから、自分の命に責任をもって一生懸命、辛いこの世で生きている。
そんな私たち衆生を憐れんで、阿弥陀さまは私たちの代わりに大変な修行をして下さり、その修行で得た功徳の
全てを「南無阿弥陀仏」の六字の名号に入れられ、私たちに届けて下さいました。
その「南無阿弥陀仏」によって救われ、生き死にを繰り返す六道から外れて、お浄土に連れて行って下さいます。
これが親鸞聖人の教え「生死出ずべき道」であり、私たちは何者で、が何の為にこの世に生まれ、どこに行くのか
という問いの答えです。
誠にありがたいことでございます。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)