皆さんこんにちは。
つい最近までずっと「夏」な季節でしたが、急に気温も下がり出しました。
皆さん、いかがお過ごしでしょうか。
季節の変わり目に結構多くの方が体調を崩されます。
どうぞ変わらずご自愛下さいますよう、念願しております。
先月、善教寺の門徒総代及び宗教法人善教寺の責任役員の交代がありました。
詳しくはこの善教寺ホームページ「News 記事」でもご案内させて頂いておりますが、新しい体制と新しいお寺
で新しいことをどんどんやって行きます。
どうぞこれからも「新・善教寺」を宜しくお願い致します。
さて、浄土真宗では「信心とは、一般的に言われる信仰心ではなく、こちらが信じる、信じない、というもの
ではない。信心とは阿弥陀さまから賜るものである。従って南無阿弥陀仏のお念仏も阿弥陀さまから頂くので
ある」…と言われます。
私も実際に、右も左もわからない状態からいきなりお得度し、その時の講義でそう習いました。
この「信心とは阿弥陀さまから賜るものであって、こちらが信じるとかではない…」の意味、わかりますか?
実は私、さっぱり理解できませんでした。
なので、お得度前の講義でしつこいくらい先生に質問しました。
「阿弥陀さまのお救いに感謝し、手を合わせて念仏の衆生として生きる、はわかります。しかし、最初に阿弥陀
さまの救いを信じるところが無ければ、手を合わせることも無いはずです。
そこに【衆生の側が信じる、ではない】との説明だと、何も始まらないのではないですか?」と。
先生はいろんな言葉で私に説明して下さりましたが、結局私はわからずじまい。
そして浄土真宗で最も大切な「信心」がわからないまま、浄土真宗の僧侶になりました。
その後、住職になる為に「教師」という資格が必要なのですが、その教師教修でも同じ問題にぶつかりました。
でも全く理解出来ません。
そのまま教師教修も終わり、私は「信心」の説明ができない住職になってしまったんです。
その後、いろんな経典や資料などを読み、たくさんの法話を聞きましたが、全然わかりません。
結局「自分の頭では理解できないもの」というものが【信心】ということにしておこう…
そう自分をごまかして年月が過ぎました。
で、ある時にふと答えが降りて来たんです。
これ、真宗の講師の先生方には大変申し訳ないのですが「こちら側が信じる信じないではない」という説明に
問題があったんです。
結論から申し上げますと、「こちら側…つまり私は、阿弥陀さまの救いを信じる必要がある」んです。
自分が疑いなくそのお救いを信じないと、未来永劫手を合わせ、お念仏申すことはないですもんね。
要は、今までの浄土真宗での説明に言葉が足りないんです。
なぜなら、最初に私を救を救おうと願い立たれたのは阿弥陀さまです。
私じゃありません。
ですから「一切衆生を救う」と願い立たれた阿弥陀さまが、その真実の救いを私たち衆生に「信じさせる心」
をずっと届け続けて下さっているんです。
なので「阿弥陀さまから賜る信心」とは「私が信じる心」ではなく、
「阿弥陀さまがその救いを私に信じさせる心」だったんです。
そして「南無阿弥陀仏」のお念仏も「南無…サンスクリット語の【帰依する】」、「阿弥陀仏【阿弥陀さまに】」
ですから、「阿弥陀さまに私の全てをお任せします」という「信じさせて頂いた心」となります。
従って「信(じさせる)心とは阿弥陀さまからの頂きものであり、お念仏も阿弥陀さまから「信じさせて頂いた
心」であるから、阿弥陀さまからの頂きものである」が正しい説明になります。
最近、各地のお寺でこのご法話をさせて頂きますが、終了後、控室でお茶を頂いていると、そのお寺の住職が
来られて「いやー、信心の意味を恥ずかしながら初めてお聞かせ頂きました。」とよく言われます。
そして「深い意味もわからず、この数十年間そういうものだ、としか考えていませんでした」…と。
浄土真宗には、お浄土の教えを伝えて来られた七人の高僧、「七高僧」という方々がおられます。
その中の第五祖である中国の僧「善導大師(ぜんどうだいし)」のお言葉で
自信教人信(じしんきょうにんしん)
難中転教難(なんちゅうてんきょうなん)
という教えがあります。
「みづから信じ、人を教えて信ぜしむること、難(かた)きがなかにうたたま難(かた)し」ですが、今の言葉
で表すと、「自らが信じさせて頂いた心を、人に教え信じてもらうのは、難しい中でもことさら難しい」です。
お浄土の教えですので、「阿弥陀さまから賜った信心を歓び、それを他の人に教えるのは、とにかく難しい」と
善導大師は言いたかったんです。
これ、私たちの生活や仕事の中でも同じですよね。
「これ、本当に良い!」と思って人に伝えても、意外とリアクション薄いな…なことありませんか。
本当に自分の心の中にスッと入って来たものが、なぜ良いのか?は、実はとても言葉では表しにくいです。
いやむしろ、言葉で簡単に伝わるようなものは、さほど価値が無いのかもしれません。
私は九年前、熊本地震が起こって善教寺が全壊し、そこで僧侶になりました。
なのでお坊さん9年生ですが、心の中から「僧侶になって良かった…」と常々思っています。
では僧侶になって何が良かったのかをお伝えしても、私の熱量そのまま皆さんに伝えることはまず不可能
でしょう。
でも、少しでもこの「良かった!本当に良かった!!」を伝えるには、私には二つのことしか出来ません。
一つは「言葉」。
言うだけなら何でも言えます…でもその代わり、真意や誠実さはかなり冷めて伝わります。
そしてもう一つは「行動」。
言葉に加えて、その言葉を立証するように行動で示していく。
自分の持っている、感じている温度をそのまま伝えるには、その分行動で見せていくしかないんです。
九年という時間が掛かってしまいましたが、熊本地震で全壊した善教寺を皆さんの大きなご協力もあって再建
することができましたが、「僧侶、住職」が本当に好きでなかったら、未だ形にもなっていないか、または途中
で投げ出して
いたかもしれません。
でもおかげさまでなんとか完成に漕ぎ着けられたのは、単なる責任や体裁だけではなく、まずもって「阿弥陀
さまの救いを皆に信じてもらいたい!既に救われた身であることを伝え続けたい!」、「それが出来る僧侶って
本当に楽しく、自信とプライドを持って続けて行きたい!」がいつも先立っているからだと思います。
自信教人信、難中転教難
の次に善導大師はこう続けられています。
大悲伝普化(だいひでんぶけ)
真成報仏恩(しんじょうほうぶっとん)
…阿弥陀さまの大慈悲、大いなる慈しみの心を伝えていくことは、真に仏さまへの御恩に報いることになる。
つまり、何事にしても、ただ「これは良い!」だけではなく、それが心の底からの歓びが伴っているのなら、
それは自ずと伝わっていくのだ、ということなんです。
最後になりましたが、今月の法語「念仏を 称える身となって 救われる」は、「必ず救う」という阿弥陀さま
からの真実の願い、お約束を信じさせようとする慈しみの心がわが身に届き、そして理屈抜きで信じ、救われた
身であることを無条件で歓び、その感謝の心が自然と手を合わせ、お念仏するわたしがいる、ということです。
言い換えれば、私を必ず救う!と願い立たれた阿弥陀さまの願いが、今わたしに至り届き誓願が身を結んで
いる姿こそが、お念仏申すわたしなのでした。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一 心(西守 騎世将)