皆さん、こんにちは。
毎日暑いですね…そう言いながら急に寒くなっていくのが最近の日本の季節です。
なんか秋が無いかのような…
そして、この法話を作ってる今、台風10号が愛知を直撃する予報が出ています。
どうなるのか心配で、大きな被害がでないことをただ願うばかりです。
さて、皆さん藤井 風(ふじい かぜ)というアーティスト(歌手)をご存知でしょうか?
実は私もつい最近まで全く知らなかったんです。
2021年の紅白歌合戦にも初出場出している歌手らしいのですが、私は紅白歌合戦を見ないので、全然知り
ませんでした。
きっかけは、とあるご門徒様宅でのお盆参り。
お勤めの後、短いご法話をさせて頂いたのですが、終わりに、「ご住職、フジイカゼってご存知ですか?」
と、そのご門徒様に聞かれました。
唐突に言われたので何のことかわからず、「カゼ…風邪?え?新しい風邪?インフルエンザの一種?」
というレベルの思考しか湧きませんでした。
聞くと、「藤井 風(ふじい かぜ)」という27歳のまだ若い男性の歌手で、
・結構仏教の教えっぽい歌詞が多い
・その為、高い年齢層のファンが多い
・そこのお宅の奥さんは歌を聞いて号泣した
・西守住職の法話を聞いていると、彼の歌を思い出す
…とのことでした。
家に帰っていろいろ調べ、そしてYoutubeでも歌を配信してるので視聴してみました。
その時の正直な感想は「今風のよく見かける歌手かなー…」でした。
でもそれは、紹介してくれたご門徒様が大絶賛で、それがこちらのハードルを高くしてるから…?と
思い直し、しばらく数曲黙って聴いてみました。
うーん…やっぱアップテンポな曲が好きなんだよなー…と思った矢先、歌のサビ部分で
「手を放す、軽くなる、満ちてゆく」という歌詞に、「なるほど!」と思いました。
私があれこれ言うよりは、ここで歌詞をご紹介した方が早いですね。
走り出した午後も
重ね合う日々も
避けがたく全て終わりが来る
あの日のきらめきも
淡いときめきも
あれもこれもどこか置いてくる
それで良かったと
これで良かったと
健やかに笑い合える日まで
明けてゆく空も 暮れてゆく空も
僕らは超えてゆく
変わりゆくものは仕方がないねと
手を放す、軽くなる、満ちてゆく
…これ、一番の歌詞ですが、僕的に「諸行無常」をきちんと説いていると思います。
さらに、二番の歌詞。
手にした瞬間に
無くなる喜び
そんなものばかり追いかけては
無駄にしてた“愛”という言葉
今なら本当の意味がわかるのかな
愛される為に
愛すのは悲劇
カラカラな心にお恵みを
晴れてゆく空も 荒れてゆく空も
僕らは愛でてゆく
何もないけれど 全て差し出すよ
手を放す、軽くなる、満ちてゆく
二番では「執着」について表していると思います。
物や人に執着するのが人間です。
私は数年前に一大決心をしてポルシェの911カレラという車を買いました。
壊れたら嫌なので、結構高年式の程度の良い車を選び、、価格もまあ高かったです。
ポルシェと言ったら夢のスーパーカー。
男の子の憧れでもあります。
でも買ってすぐに思ったのは
「狭い」
「うるさい」
「内装ショボい」
「いたずらや盗難に遭わないか心配」
「事故を起こしたら車両価値が落ちる」
…夢の車をやっと買えたのに、思うのはこんなネガティブな事ばかりでした。
そして、「あまり乗ると走行キロ数増えて査定が下がるから…」なんて屁理屈付けて自分を無理やり
納得させ、乗らなくなってしまいました。
これ、歌詞で出てくる「 手にした瞬間に 無くなる喜び」まさにそれで、単にモノに執着していただけ。
この歌では「愛」という表現で人に対する執着を言っているのだと思いますが、実は仏教では「愛」って
あまり良い物とは考えません。
なぜなら「渇愛(かつあい)」という言葉があるように、人は知らず知らずに人からの愛を渇望し、周り
が見えなくなっていくんですね。
藤井風君も「 愛される為に 愛すのは悲劇 カラカラな心にお恵みを」と言っています。
なので大切なのは愛ではなく「慈悲」になってくるんです。
慈悲こそが仏さまの教えの中で重要なものであり、そして仏さまの智慧そのものです。
人に対して慈しみを持つ心を「菩提心(ぼだいしん)」と言い、これが欠けるから人は争い、奪い合い、
憎み合い、自己中心的になっていくんです。
そんな世界で生きていても幸せになれるわけがありません。
遥か遠い昔、とある国の王様が、そんな世界で迷い苦しむ衆生に真の安らぎを与えようと、国を捨て、王位
を捨て、「法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)」と名乗って衆生の為に長く大変な修行をし、その修行で得た功徳
の全てを迷い苦しむ衆生に与えることを第一の願いとし、ついにその願いを成就して法蔵菩薩が阿弥陀如来
という仏さまになり、私たち衆生をその命が尽きた後、二度とこんな迷いう苦しみの世界に生まれないよう
に仏として仕上げて下さり、お浄土へと連れていって下さいます。
これを「仏願の生起本末(ぶつがんのしょうきほんまつ)」と言います。
この願いによって、私たちは既に救済されつつあるんですね。
藤井風という人は、どれだけの仏教知識を持ち、どれだけ仏教に関わっていたのかは全くわかりませんが
(プロフィールでは一切出てこない)、まさに歌う法話、というような表現方法ですね。
結局「永遠に今のままでいたい」、「愛がわからず、単に愛を求める」というのは、やはり執着そのもの
なんだと思います。
いろんなものごとに執着し、結局それが原因で迷い、苦しむのが「わたし」なんですね。
だからこそ、執着から離れ、身も心も軽くなり、真の安らぎが訪れる。
これこそが「手を放す、軽くなる、満ちてゆく」なんです。
こだわりは生きて行く上で大切ですが、単にそのこだわりに執着していないか、という認識も大切です、
人は段々意固地にもなって行きますからね。
まさに私のことです…
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)