皆さん、こんにちは。
いよいよ九州、東海地方ともに梅雨入りしました。
でも沖縄は既に梅雨明けだそうです。
今年の梅雨は例年よりも遅いのですが、その分梅雨明けも遅くなるかといえばそうではなく、例年
通りだとか…
これ、何を意味するのかと申しますと、短期間にドッと雨が降る、という事なんです。
これによってまた線状降水帯が出来て局地的に大雨が降り、洪水や土砂崩れなどの災害が発生します
し、農作物にも影響が出て野菜などがまた著しい値上げになる可能性もあります。
梅雨の雨はじめじめして洗濯物も乾かず、なかなか鬱陶しいですが、この雨のめぐみがなければ、
私たちは食べ物を手に入れることが難しくなります。
降ったら降ったで鬱陶しい。
降らないなら降らないで困る。
一度に降ったらそれも困る。
丁度よく降ってほしい。
…そう考えるのが人間ですが、言い換えれば、人間とはとても自分中心な生き物とも言えますね。
さて、今月の法語です。
私たちは多くの命の犠牲によって自分の命をつないでいます。
スーパーに行けば、新鮮な野菜や果物、お米、魚や肉類などが置かれ、売られています。
しかもパック詰め、袋詰めされています。
この状態で見ると、「食材」としか見えません。
ここに大きな勘違いがあるんです。
と言うのも、これらは確かに食材ではありますが、その前に「多くのいのち」なんですよね。
ですから、食材が並んでいるですが、多くの命…しかも人間の為に犠牲となったたくさんの命が
並んでいる、と考える人はなかなかいませんね。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)には「食事のことば」というものがあります。
食前には手を合わせて
「多くのいのちと、みなさまのおかげにより、このごちそうをめぐまれました。深くご恩を喜び
ありがたくいただきます」と唱和してから食事を始めます。
食後には同じく手を合わせて
「尊いおめぐみをおいしくいただき、ますます御恩報謝につとめます。おかげでごちそうさま
でした」と唱和して食事を終えます。
これ、私がお得度して僧侶になる時覚えないといけないアイテムでしたので、意味はさておき、
とにかく暗記しました。
でもだんだん時が経つにつれて、これはとても重く重要な言葉だと気付いたんです。
まず食前の言葉。
多くの命とは、わたしが今日を生きるために犠牲となってくれた動物、植物あれゆるいのちです。
さらにそれだけではなく、農家などの生産者さん達、漁師さん達、畜産業の人達に加えて、加工して
調理しやすくしてくれる人達、またこれらいのち=食材を料理、調理してくれた人達…
他にも食材などあらゆるものを輸送して運んでくれた人達。
つまり、今わたしの前に並んでいる食事は、多くのいのちと、本当に沢山の人達のおかげで、目の前
にわたしのための食事が並んだんですね。
その、多くの犠牲となってくれたいのち達と関わって下さった多くの方達のご恩にに心から感謝をし
有り難く頂くんです。
次に食後の言葉。
わたしにほどこされた多くのいのちと沢山の方達のご苦労こそが有り難いおめぐみであります。
それらをしっかりと頂き、念仏の衆生たる私たちがすべき事…御恩報謝の生き方につとめてまいり
ます、という意味です。
御恩報謝の御恩とは、わたしのいのちの解決をして下さった阿弥陀さまのご苦労とそのお慈悲への
御恩のことです。
報謝とは、心から感謝しそのお慈悲に報いることです。
しかしわたしに出来ることはただ一つを置いて他には無いんです。
なぜなら、阿弥陀さまの御恩は私が報いても報いきれない大変大きな御恩だからです。
なので、唯一わたしに出来ること…それこそが「南無阿弥陀仏 なんまんだぶ」のお念仏。
それしか報いることが出来ないんですね。
しかし、遥か昔、私をお念仏の衆生に育て上げ救おうと願い立たれた阿弥陀さまの誓願がわたしの
上で実を結んでいる姿、それこそが念仏を申すわたしなんですね。
阿弥陀如来という仏さまは、救いの対象であるわたしに何の条件も付けられていないんです。
なぜなら、わたしには何もできないことを見抜かれているからです。
その分、ご自身に多くの条件を課し、大変なご苦労をして下さって私を救う手立てを完成して
下さったんです。
その中で唯一わたしができることこそがお念仏なんですね。
救われようとお念仏するのは違います。
言われたからお念仏するのももっと違います。
今まさにわたしは救われたんだ…すでに救って下さったんだ…と心から思えば、いつでも、どこに
居ようとも、人目憚らずに自然と「阿弥陀さま、ありがとうございます」と手が合わさり、お念仏
申すようになるんです。
これこそが、如来さまより賜る信心であり、ご恩報謝のお念仏なのです。
皆さまも、もしよろしければ、これから食事のたびに「食事の言葉」を唱和されてみて下さい。
人が生きて行く上で大切な食事ですが、この食事は決して当たり前ではない、という事を知るべき
だと思います。
こうして当たり前だと勘違いしていた事に感謝をすることが出来るようになれば、おそらくご自身の
目に映る物事はガラッと変わるはずです。
そして自分がいかに恵まれて幸せな人間かがわかります。
それがわかれば、ご自身の人生は「ありがとう」に溢れ、ありがたい事ばかり起こります。
つまり、感謝こそが幸せの条件だったんですね。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)