皆さん、こんにちは。
先月13日に、一カ月遅れで善教寺春彼岸会を、熊本別院講堂をお借りして開催致しました。
正信念仏偈のお勤めの後、坊守・西守あつ子の法話でした。
たくさんの「ありがとう」が溢れる内容の話でした。

その後、善教寺門徒総代をして頂いている小山祐喜子さんが主宰する~Yukiko Voice~の実演。
~Yukiko Voice~は、自身の呼吸と発声を通して行う心身のセルフケア法です。
今回は、簡単な呼吸法と身体に溜まった毒素を流し出すセルフマッサージを、参加された皆様と一緒に
行って頂きました。





皆さん、とても楽しそうに取り組まれ、多くの笑顔が生まれました。
ユキコさん、インストラクターの皆さん、本当にありがとうございました。
善教寺はこれからも~Yukiko Voice~を応援していきます。

さて、今月の法語は浄土真宗の根本聖典である仏説無量寿経の下巻から頂きました。
お経とは釈尊(お釈迦さま)の教えを書物にしたものですが、今月の法語は特に釈尊が弥勒菩薩
たちに述べられた言葉です。
「善悪自然(じねん)にして行を追うて生ずるところなり」と因果の道理を説かれておられます。
善行をすれば善なる道へ、悪行をすれば悪なる道へ…そうなっていくのは自らが然(しからしむ)る
のであって、特別に他の力が加わるからでも、偶然でもありません。
然(しからしむ)る、とは「そのような結果にさせる」「そうなる」という意味です。
従って仏教では自然と書いて「しぜん」とは読まず「じねん」と読みます。
つまり因果論を表す言葉です。
身近なところから申しますと、食べたい時に好きな物を食べたいだけ食べ、運動もせずにゴロゴロと
ずーっと過ごして来たのなら、当然体重は驚くほど増え、これに伴って様々な病気も患います。
これは他の誰でもない、自身が行ってきた結果で、自らそんな身体を作り上げてきたんです。
たとえそれが気に入らなくても、誰のせいでもありません。
過去の自分が好んでそうしてきたのです。
また逆にいつも人に優しくし、困った人を助け、努力して勉強や仕事を続け、更に健康に気を付けて
規則正しい生活と運動をしていれば、人からも支えられ、勉強でも仕事でも良い結果を残し、体型も
美しく体も健康です。
そしてそういう人は常に明るく朗らかでイキイキされているので、表情も美しいでしょう。
これも、過去の自分がそうしてきたからです。
ですから、今の自分は良くも悪くも過去の自分がそう作っただけです。
誰のせいでも、誰のおかげでもないんです。
~Yukiko Voice~のインストラクターの皆さん、~Yukiko Voice~を始められる前のご自身写真を
私に見せて下さいましたが、今とは印象が全く異なっていたのに驚きました。
現在の皆さんはまず表情がとても輝いていて素敵です。
自信に満ち溢れていて姿勢もスタイルも美しいです。
そんな今の皆さんを作られたのも、過去の自分。
もちろん、~Yukiko Voice~のプログラム内容が素晴らしいのもあります。
でもそれに真剣に取り組んだ過去の自分が、まさに今の自分を作っただけ。
自ら然(しからしむ)る、なんです。
ここまでは、短い時間での話です。

もっと大きく考えて行きますと、この仏説無量寿経では、今の自分は、過去…若い頃とかそんな短い
時間の話ではなく、もっともっと過去、つまり前世の業によって今があるのだ、と説かれています。
例えば、自分がお金に困っているのであれば、それは過去世において人に施さず、自分のことしか
考えない生き方をしてきたから、今まさにその業によってお金に恵まれないのである。
また逆に今豊かな暮らしが出来ているのであれば、過去世においていつも人に施しをする生き方をして
きたからだ、と聞きます。
ですから仏教では布施行という行があります。
お布施と言うと、僧侶が読経の対価として頂く金品の名前として使われますが、正しくは皆さんが僧侶
に施しをするから、お布施なんです。
僧侶は僧侶で頂くばかりではなく、同じく人に何らかの施しをするんです。
これが布施行。
布施は物だけではありません。
人に笑顔を向けるのも立派なお布施なんです。

話がそれましたが、過去世の業によって今がある、というのがお釈迦さまの教えです。
「善悪自然(じねん)にして行を追うて生ずるところなり」は、過去に善行や悪行をすれば、自ら
然(しからしむ)ることにより、その行をによって次に生まれる場所が決まるのだ、とお釈迦さまは
言いたいんですね。
善行…きちんと倫理モラルを守って感謝の生き方をし、そして阿弥陀如来の本願力(救いの力)を
信じれば、この世と縁が尽きた後は輪廻転生から外れお浄土に生まれ、仏となることが出来る。
悪行をし続け、阿弥陀さまの救いから背を向けて生きれば、命尽きたその後はまた地獄道、畜生道、
餓鬼道、人間道、阿修羅道、天道の苦悩の世に生まれ、その後もずっと生き死にを繰り返すことに
なる。

私は今、人間として生きております。
という事は、過去世において阿弥陀さまの救いに背を向けていたのか、または阿弥陀さまの救いに、
仏法に出遭えなかったのでしょう。
しかし、幸運にも人間として生まれました。
なぜ幸運かと申しますと、人間に生まれる事は稀であり、更にその命の中で仏法に出会い、仏さまに
会うことは大変難しい事なのだと言われているからです。
皆さまも私も、やっと輪廻が終わるのです。
親鸞聖人はこの生死を繰り返すループから出る事を「生死(しょうじ)出(い)ずべき道」と仰せに
なられました。
また、浄土真宗ではお浄土の教えを伝えてこられた「七高僧(しちこうそう)」のお徳を讃えるの
ですがその中に「源信和尚(げんしんかしょう)」という方がおられ、次のように仰せになられて
います。
「無限の生死(しょうじ)の中で、人間に生まれることは極めて難しい。たとえ人間に生まれても、
仏の教えに出遭うことは難しく、たとえ仏の教えに出遭えても、信心をいただくのは稀有のことで
ある。ところが今、われらは幸いにも仏法を聞くための全ての条件に恵まれた。娑婆に決別し、浄土
に往生できる機会は、今この時をおいてほかにはない。なのにいつになっても欲望はなくならない。
臨終のとき、猛炎の中に堕ちながら助けを求めても、もはやどうにもならない。どうか一刻もはやく
さとりの道を歩み始めていただきたい。宝の山に入りながら、手ぶらで帰ってくるような、愚かな
生き方をしてはならない」。

この世と縁が尽きた時、また次に人間として生まれてくることを前提に考えていれば、今の命すらも
無駄に生きることになります。
しかし、未来永劫人間として生まれることはもう無い、と考えると、
今すぐにでも念仏者として生きて行かなければ!
阿弥陀さまから信心賜り、お念仏申していこう!
と思うのではないでしょうか。
そして生死の繰り返しから解脱し、お浄土に生まれさせて頂いて真のやすらぎを得ることが出来る、と
考えると、仏法に出遭えた歓びを心から感じ、信心賜ることに歓喜し、今の命を目一杯生き抜く思いに
溢れるのだと思います。
なぜなら、既に自分の死という最も大きな苦悩を、阿弥陀さまに解決して頂いたのですから。
本当にありがたいことです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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