皆さん、こんにちは。
新たに新年度がスタートしました。
4月13日(土)には遅めですが善教寺の春彼岸会が、いつも通り本願寺熊本別院の2階講堂をお借り
して開催されます。
(本願寺派熊本別院 熊本市中央区坪井2-3-32 電話096-343-8283)
今回はなんと、善教寺坊守であり、衆徒でもある西守あつ子が初のご法話に挑みます。
どんなお話をするのかわかりませんが、楽しみです。
また更に、善教寺の門徒総代であり、いつも善教寺の行事で司会を務めて下さっている小山祐喜子氏
が主宰されている~Yukio Voice~(ゆきこヴォイス)の体験イベントがあります。
~Yukiko Voice~とは、自身の呼吸と発声を通して行う心身のセルフケア法で、次のような素晴らしい
理念を柱に活動されています。
・私たちは不満を抱えて生きるのではなく、自分に注目し、自分を知り、自分を認め、自分を赦し、
自分に納得して生きることをめざします。
・私たちは自分の過去を受け入れ、それを糧とし自分の生き方に誇りを持って生きることを目指します。
・私たちは人からの評価に囚われず、自分の納得を大切に、未来に希望を持ち、夢を見続け歩いてゆく
ことを目指します。
・私たちはそれぞれの得意をいかしながら、これまでの経験が次の誰かの役に立つことを目指します。
・私たちは日常の当たり前に感謝し、自分をはじめ一人でも多くの方達が自分らしく生きてゆける
世の中にしていくことを目指します。
…まさに阿弥陀さまの「我に任せよ、そのまま救う」というお念仏のお呼び声に応えるかのような、
今を目一杯生き抜いていく為の自己統制と倫理観、生かされているという事への御恩報謝の考え方です。
今回は~Yukio Voice~のインストラクターの方達と一緒に皆さんに~Yukio Voice~を体験して頂く
機会を作って頂きました。
滅多に無い、とても貴重な体験をして頂けますので、皆様どうぞお気軽にご参加下さい!
(~Yukio Voice~ホームページはこちら → Click !)
さて、今月は歎異抄(たんにしょう)という書物からお言葉を頂きました。
歎異抄というお書物は、親鸞聖人亡き後、その大切なみ教えが間違って伝わっていくことを憂い、
書かれた書で、「異なるを歎く抄(書)」なので歎異抄と言います。
作者は、実は公式には不明なんです。
ただ、おそらくですが親鸞聖人の直弟子であられた唯円(ゆいえん)が書いたのではないか?ということ
で、非公式ではありますが「著者 唯円」と言われていることが多いです。
歎異抄は「親鸞聖人は、こう仰せになられていました…」という内容の文が多く、この「薬あればとて
毒をこのむべからず」も、「聖人がそう仰せになられました」という内容です。
この聖人の元のお言葉は、親鸞聖人からのご消息(お手紙)に書かれていた「薬あり毒を好めと候ふらん
ことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」から来ています。
つまり、「薬があるからと言って、毒を好むべきではない」というストレートなお言葉なんですが、意味
はとても深いんです。
親鸞聖人は「阿弥陀如来の救いの目当ては悪人である」と常々仰せになられていました。
しかし親鸞聖人の言われる悪人とは、罪を犯し悪事を重ねるような犯罪人ということではありません。
煩悩が消えず、智慧もなく悟りもひらけないわが身のことを「悪人」と言われてきました。
とても謙虚な考え方から来ているお言葉で親鸞聖人のお人柄が出ているお言葉だと思います。
しかしこの言葉を文字面だけ受け取り、「阿弥陀如来のお救いの力である本願力があるのだから、自分は
悪事を重ねていたって救われるのだ」と大きな勘違いをしている人たちが多かったんです。
これを「本願ぼこり」と言います。
つまり、悪事を犯した人と救うのが阿弥陀如来の本願であるからと、わざわざ好んで悪事を重ね、いつか
お浄土に行ける為の業とせよ、という勘違いなんですね。
このせいでいろんな悪事が行われるようになってしまった為、親鸞聖人がお手紙で「薬があるからと
いって、好んで毒を飲んではならない」と戒めの比喩で書かれたんです。
薬とはもちろん阿弥陀さまのお救い、本願力で、毒は悪事です。
しかし程度の大きさは別として、また意図してか、せずしてかは別として、何かしらの悪いことをして
しまうのも私たち衆生です。
ですから、必ずしも「悪」が往生の妨げ、救われない、ということではありません。
修行もできない、煩悩も抱えたまま、よって智慧すらなく迷い苦しみながら生きるしかないこのわたし。
だからこそ、阿弥陀さまのお救いの目当てはこのわたしだったんです。
善人、悪人という表現がありますが、完璧な善人であれば修行もし、人に施し、智慧も持ち煩悩を滅する
ので、自力で仏さまになることが出来るでしょう。
でもその人には阿弥陀さまのお救いは必要ないですね。
だって自力で成仏できるのですから。
従って、そういう人以外は皆善人ではないので、悪人、というわけです。
悪人は決して自力で仏さまには成れません。
成れないからこそ、阿弥陀さまの本願力にお任せするしかないんですね。
故に自力以外の力、阿弥陀さまのお力ですから、他力によってのみ救われるんです。
これが他力本願の正しい意味なんです。
そんな阿弥陀さまの本願力によって、救済されつつあるわたしなのですから、自然と手が合わさり、
お念仏が出てくる。
これが御恩報謝のお念仏であります。
ありがたいことですね。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)