みなさん、こんにちは。
あっという間に師走ですね。
この一年を振り返られてみて、皆さんにとってどんな一年だったでしょうか。
私はとにかく忙しかった一年でした。
一月に善教寺の棟上げがありました。
そこから毎月建築屋さんとの打ち合わせがあり、夏には本堂の照明を世界的に有名な照明デザイナーさんに
依頼し、概ねの方針が決まりました。
そして庫裡(住居部分)を先に完成させるように依頼し、今月末に概ね庫裡が完成しそうです。
この間、建築を依頼している岐阜県のキミドリ建築さんは何十回も岐阜県と熊本県を往復し、本当に献身的に
仕事をしてくれています。
ここの親方、恩田さんは元々私のヘリコプターの訓練生です。
お寺を再建することが決まった時、建築屋さんはこの恩田さんと決めていました。
そして偶然にも恩田さんのお父さん方は熊本出身で、ご先祖様のお墓も熊本城の北側の浄土真宗のお寺に
あることもわかりました。
少し時間が掛かっていますが、先に申し上げた通り、岐阜県から通いながら工事をしていますので、私は
特に工期を指定して急がせることもしていません。
気持ちよく恩田さんが仕事をしてくれることが一番だと考えているからです。
なので、もう少しでお寺も完成目途が見えてきますが、それまで今暫くお待ちください。
さて、今月の法語です。
私たちは常に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と、お念仏頂いております。
「お念仏する」ではなく「お念仏頂く」という言い方に意味があります。
私がお話する法話でも時々申上げるのですが、「南無阿弥陀仏」にはどんないわれがあるのか?を知ること
は、とても大切なんです
「南無阿弥陀仏」とはインドのサンスクリット語の「ナマス アミターユス」が中国に渡り、それが中国語
に音写されて漢字で「南無阿弥陀仏」となりました。
ナマスは敬意を表し、仏教では「おまかせします」という意味を持ちます。
アミターユスは無量寿、つまり量(はか)り知れない命を持つ者、という意味です。
阿弥陀如来のサンスクリット語でのお名前は、「アミターユス アミターバ」。
アミターユスは先にも述べた通り無量寿であり、アミターバは量(はか)り知れない光を持つ者、無量光
という意味です。
量り知れない光とは阿弥陀如来の救いの光のことであり、時空を超えて、そして何ものにも遮られることなく
衆生に救いの光を当て続けることから由来しています。
ですからご本尊は常に後光を発しているんですね。
なので、無量寿仏、無量光仏とも、阿弥陀さまのことを表します。
つまり「ナマス」は「おまかせします=帰命(帰依)します」であり、「アミターユス」は「阿弥陀さまに」
となります。
つまり「私の命を全て阿弥陀さまにおまかせします」という意味ですね。
この世と縁が尽きた時、阿弥陀さまのお救いの力=本願力によってお浄土に往き、そこで仏として生まれさせて
頂くことへの有り難さに、心を込めての「南無阿弥陀仏」なんです。
更にまだ続きがあります。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏するのはわたしの口です。
その時わたしの耳には私の声で南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と聞こえます。
でもこの声こそが阿弥陀さまからのお呼び声なんです。
私の口から出るお念仏「南無阿弥陀仏」は、南無(おまかせします)阿弥陀仏(阿弥陀さまに)ですが、耳から
聞こえる「南無阿弥陀仏」は南無(まかせよ)阿弥陀仏(この阿弥陀に)という阿弥陀さまからの声なんです。
以前にも法話でお伝えしておりますが、阿弥陀さまは目に見える仏さまではありません。
「南無阿弥陀仏」という、声の仏さまなんですね。
その理由は、常に「わたし」という衆生にずっと寄り添って下さるためだからです。
要するに阿弥陀さまは常にわたしの中に居て下さる仏さまなんです。
そしてわたしは既に阿弥陀さまに救って頂いた有り難い身なんです。
浄土真宗御開山の親鸞聖人(浄土真宗では親鸞聖人のことを、御開山…ごかいさん…または宗祖…しゅうそ…と
よく呼称します)は、「信心賜ることが真の救い」というみ教えを残されました。
時々「お念仏すれば救われる」という話をされる方がおられますが、これは正しくはありません。
なぜなら、救われるためにするお念仏であれば、それは自力による修行になるからです。
親鸞聖人は自力修行では救われることは無い、とバッサリ言われています。
浄土教では、わたしたち衆生は修行を生涯にわたって続けることが出来ず、また煩悩にまみれた命を生きている
ので、自力では浄土往生出来ず、ただ阿弥陀さまの本願力=他力によってのみ救われ、お浄土にて仏として生ま
れるというのが正しい救いの教え。
そしてこれが正しい他力本願の意味です。
昨今ではこれを揶揄して人をアテにして自分は何もしないことを他力本願と言いますがこれはとんでもない間違
いです。
衆生は自力では浄土往生出来ない…故に阿弥陀さまの力、他力によってのみ浄土往生させて頂く。
これが正しい他力本願。
信心とはこちらから信仰していくとかしないとかという話ではなく、ただひたすら阿弥陀さまの救いを信じ抜く
ことです。
「この阿弥陀は、そなた一人を救うための仏である。どうかこの私の願いを信じてその命を生き抜いておくれ」
という阿弥陀さまからの大いなる慈しみの心を頂くことなんですね。
そうなると、既に救われた身であり、また常に阿弥陀さまが私に寄り添って下さっているわけですから、自然に
手が合わさり「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」とありがたい心でお念仏がこぼれるのです。
その度に阿弥陀さまはわたしの声を借りて、南無(まかせよ)阿弥陀仏(我に)と呼びかけて下さる。
これが「御恩報謝のお念仏」です。
なので、信心とは阿弥陀さまから頂くもの。
お念仏とは阿弥陀さまからのお呼び声ですから、お念仏も阿弥陀さまから頂くもの。
これが冒頭で申し上げた「お念仏頂く」という意味なんです。
ここまでお話すれば、もうおわかりでしょう。
「わたしは、決して一人ぼっちじゃないんだ!」という事が。
いつも、どんな時でも阿弥陀さまがご一緒。
お念仏すれば、阿弥陀さまがいつでもどこでも私に呼びかけて下さる。
そんなありがたい命を生きているんだということがわかれば、今日という日も景色が大きく変わるでしょう。
ありがたい気持ちがあふれて来ることでしょう。
そして、「ありがたいな」と思ったその時に自然と手が合い、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏賜る。
わたしを念仏の衆生に育て上げ、救おうと願い立たれた如来の誓願が、いまわたしの上で実を結んでいる姿…
それこそが念仏頂くわたし、なのです
まことにありがたいことです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)