皆さん、こんにちは。
8月29日に熊本県上天草市の離島で「猫の島」で有名な湯島で、そこに住む子供達に
空から自分達の住む島を見てもらおう、という企画があり、ヘリコプター二機で向かい
湯島小中学校のグランドに着陸しました。





その後、今回の企画の中心となったナカヤマ精密(株)の中山愼一社長が「ゆめをもとう」
というお話を子供たちにされ、引き続き世界的に有名な航空写真家であるチャーリィ古庄氏
から「すきなことをやりつづけよう」というお話がありました。
そして最後に私が「まずはやってみよう!」というお話をしました。
主に、2005年愛知県で行われた「愛・地球博」のパートナーシップ事業で私が行った、
オーストラリアから日本まで小型ヘリコプターで飛行するというチャレンジでの出来事の
内容です。
船で日本からオーストラリアへ送ったヘリコプターが現地に着いていない、というトラブル
から、インドネシアで燃料が無くなりジャングルに緊急着陸した話、またあるはずの空港が
無くなっていた話、フィリピンでは管制塔に無線で呼び掛けても返事が無く、じつは管制官
は昼寝をしていた話…など、いずれも日本では考えられないことが、世界では当たり前に
ある、という事を説明しました。



その後実際に子供たちにヘリコプターに乗ってもらい、島を自身の目でみてもらいました。





皆大喜びで、如何に自分達の島が自然豊かで美しいのかが、わかったようです。
この様子は、当日夕方のTKU(テレビ熊本)のニュースで紹介され、また翌朝の熊本日日新聞
にも大きく掲載されました。



当日は市の教育長も視察に来られており、「こういう学びが必要なんです!」と訴えておられ
ました。
多様性が求められる今の社会では、それに対応できるグローバルな視点が必要です。
今回の経験が、今後子供たちの成長において何かしらのヒントや励みになれば幸いです。

さて、今月は「命の果てにあるもの」について少し考えてみたいと思います。
自分は何の為に生まれて来たのだろう…と、自分の命の意味について考える方は多いでしょう。
生まれた意味…命の誕生とは神秘的で、そして歓びもありますが、同時に苦の始まりとも言え
ます。
四苦八苦の内の最初の四つの苦である「生老病死」の苦。
この内の「生」の苦は「生きる苦しみ」と解説されることが多いのですが、私はこれに「生まれ
る苦しみ」も加えてよくお話するんです。
苦とは肉体の苦しみもそうなんですが、大元は「自分の思い通りにならない苦」の事を指す
んです。
生命が生まれる事は確かに歓びもあるのですが、実際には「どの時代に」「どの国で」
「どの両親の元で」「どんな性別、特徴、性格」で生まれて来るかという選択権が全く無いまま
この世に生まれて来ています。
そして、その選択権の無かったその命に責任をもって長く生きていかなければなりません。
ですから、生まれたその瞬間から苦は始まっています。

そしてまさに文字通り四苦八苦して生きて行くのですが、やがて「私はいったい何のために
生きているのだろう」という問いが起こります。
このままこの苦しい世界で生き続け、やがて死んでいく。そんな命に何の意味があるのだろう…
そんな大きな疑問が壁のように立ちはだかります。
しかしそれは、命の果てについてわかっていないからそう考えるしかなくなるのでしょう。

一般的に「生」とは
・素晴らしいこと
・楽しいこと
・良いこと
・長く続くこと
といった肯定的な考えがあり、逆に「死」とは
・怖いこと
・嫌なこと
・敗北
・無に帰すること
などと、否定的なイメージがありますね。
でもそれは、この世で生きている視点でしか考えていない小さな見方からなんです。
ですから一般的に生死と書いて「せいし」と読みます。

しかし仏教は違います。
まず何の為に命があるのか?とは、まず「仏さまと出遭う為の命」なんですね。
私たちは六道という迷い、苦しみの世界を長い間輪廻してきました。
仏さまと出会えなければ、また別の迷い苦しみの世界で生まれ、苦を味わいます。
これを六道輪廻とか輪廻転生とも言います。
では何の為に仏さまと出遭うのかと申しますと、この輪廻から解脱する為に出遭うのです。

次に何の為に生きるのか?という問いですが、これはただ生きてただ死ぬ為ではなく、お浄土
に往く為に生きていくんです。
仏さまに出遭うという事は、仏法に出遭うという事です。
仏法に出遭うという事は、この世と命が尽きた時、輪廻から解脱してお浄土に生まれ、煩悩を
抱えたままだったこの私を仏さまの大きな慈しみの力によって仏と成らしめ、無常の悟りを得
そして無上の安らぎを得るんですね。
そして今度は仏と成ってこの世に還り来たりて、自分が救われたように迷いの世界で苦しみ
ながら生きる衆生を救済していく。
ですから、命尽きたということは、無に帰するのではなくその逆で、自分も救われたのだから
こんどは自身が他の命を救うという、次の新たな、そして永遠の命を約束された、ということ
なんですね。
なので仏教では生死と書いて「しょうじ」と読みます。
つまり、一般的に言われる生死とは全く別の意味なんです。
故に、命の果てにあるものは、死などではなく、悟りだったんですね。

煩悩にまみれ、もがき苦しみながら生きる私をどうしても放っておくことが出来なかった
阿弥陀さま。
そんなどうしようもない私がいたからこそ、「私」という一人ひとりを救うために大変な苦行
をされ、衆生救済を実現された阿弥陀さま。
これこそが仏願の生起本末といわれるものです。

「我にまかせよ、そのまま救う。我が浄土に生まれ、仏となれよ…」
そんな如来さまの仰せを聞く命…次が約束されているからこそ、今の迷い苦しみの命であっても
勇気をもって生き抜こうと思えるのではないでしょうか。
私の命には終わりなどは無いのです。
私が死を恐れ、忌み嫌い、「助けてほしい…」そう願う前から阿弥陀さまは私を救いの手の中に
入れ、しっかりと掴み、決して放すこと無くそのままお育て下さっている。
私の命は、とてもありがたく、そして報いても報いても、報いきれない程の慈しみに包まれた
命でありました。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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