皆さん、こんにちは。
先月は異常気象による大雨のことをお伝えしましたが、実際に熊本に大雨が降り、益城
地方は水害が起こりました。
田畑は水浸しで農作物にも影響が出ています。
また、土砂崩れも起きてしまい、同じ宗派である本願寺派のお寺も本堂が潰れていまい
ました。
御見舞いに伺いましたが、かなりひどい状況で、道も土砂が覆い先に進めない状況でした。
益城町の浄土真宗本願寺派 浄恩寺さん。
完全に本堂が土砂で押しつぶされています。
上空からの様子。皮肉にも、お寺の敷地部分のみ土砂が流れ込んでいました。
さらにその数日後、今度は福岡県に大雨が降り、久留米で土砂崩れが発生しました。
土砂崩れ現場。山の上の方から崩れて来ているのがわかります。
やっと日本列島は梅雨明けし始めましたが、今度は台風なども懸念されます。
今や安全安心なところはありません。
早い段階での避難と、災害対策の為の普段からの防災用品の準備などをすることが肝要
です。
どうか皆様、くれぐれもお気を付け下さい。
さて今月の言葉も法語では無いのですが、仏教では、特に浄土真宗ではよく「善人、悪人」
という言葉が出てきますので、これについて少し触れていきたいと思います。
私はよくご法話の席で、「皆さんは善人ですか?悪人ですか?」と問いかけます。
「では、ご自身は善人だと思う方、お手を挙げて下さい」と言っても、誰も手を挙げる人
はいません。
「なら、ご自身は悪人だと思われる方、手を挙げて下さい」と言っても、これまた誰も手を
挙げません。
「それならば、善人と悪人の中間だと思われる方…」と言うと、ここで一斉に手が上がり
ます。
皆、「自分は悪人ではないけど、善人とも言い難い…」と考えておられるかと思います。
親鸞聖人はご自身を含む「人間」のことを「悪人」と表現されておりました。
なぜ人は悪人なのでしょう?
今月はこれについて少し皆さんと考えていきたいと思います。
「あなたは悪人ですか?」と問われた時、人は大抵否定します。
なぜなら、普通の方は人を騙したり、ましてや命を奪うなんてしてないからです。
つまり、罪を犯していないのだから、悪人ではない…そんな理屈が立つかと思います。
私ももちろん、人をだましたり、誰かの命を奪うなんて事していません。
そんなことをしていたら、私は僧侶としてここでお話をお伝えしていません。
私は小学校の時に釣りが好きでした。
休みの日になると自転車で川に行って川魚を釣ったり、海は遠かったので母親に車で海に
連れて行ってもらい、堤防でアジやサバなどを釣っていました。
釣った魚はその日の晩ご飯のおかずになります。
ただ釣りが楽しい…それだけしか考えていませんでした。
でも、視点を変えると、私は釣り針に餌を仕掛けて魚を騙していました。
そして釣り上げて命も奪っています。
ですから、「騙してもいないし、命も奪っていない」とは言ってもそれは「人に対して」と
言う人間の理屈です。
魚から見たら、私は詐欺であり、命を奪うとんでもない鬼です。
ですから、人間の都合で勝手に考えた決まりやルールは犯してはいない、というだけの話
なんです。
生きとし生けるものは、他の命を奪って口に入れないと生きていけない生き物です。
よくテレビでライオンが小鹿を襲ってその命を奪うシーンを見ます。
ライオンもその小鹿の命を奪わなければ生きていけませんし、子供も育てられません。
とても残酷なシーンですが、人間もやっていることに変わりはありません。
そんな多くの命を入れる口ではありますが、同じ口から不平不満や人の悪口を言ったり、
また人の噂話をして面白がるのも人間です。
ですから、あらゆる命の立場から見ていくと、やはり人間って、悪人でしょうね。
さらにお金目当てでどんどん環境破壊をもしています。
これを「経済」と呼んで美化していますが、それは違います。
そもそも経済とは「経世済民(けいせいさいみん)」の略で「世を経(おさ)め、民を
済(たす)ける」という意味です。
経済、経済と言いながら常にお金ばかりを求めて生き物を乱獲したり、緑を潰して土地を
売り物にし、また廃棄物を不法に捨てて土砂崩れを引き起こし、結果他の人の命を奪う
結果になったりと、自分勝手なことばかりしている生き物なんですね。
そんなことに加担していないとしても、少なからずとも便利さや快適さを享受しているのが
私たち人間なんです。
大切なことは、「自分は悪人なんだ」という認識と、反省だと思います。
常に他の多くの命を奪って行き、誰かに、他の別の命に迷惑をかけながら、様々な欲望に
まみれて生きている、という自覚が大切なのだと思います。
今度は善人についてです。
善人という人は、正しいということをよく理解しています。
が故に常に「自分が正しい」という考えも持っています。
善人同士が議論をすると、絶対に話はまとまりません。
なぜなら「自分が正しい」とお互いが思っているから。
戦争という人類の愚かな行為は、「愚か」とはわかっていてもその当事者双方に正義が
存在します。
ロシアとウクライナの戦争もそうです。
先ほども申し上げた通り、「正しさ」とは、所詮人の作った基準であり、都合でしか
ありません。
その小さな枠の中でお互いの小さな正しさをぶつけ合っているのが善人なんです。
ですから、善人の住む家は争いが絶えないのです。
ある夏、奥さんが麦茶を作って冷蔵庫に入れていました。
ご主人は仕事から帰ってくると、その麦茶を冷蔵庫から出してゴクゴクと飲むのが日課
でした。
ところがある日、「今日は暑いから」と奥さんは晩御飯のメニューは冷麦にしようと考え
先に麺つゆを造りましたが、冷やしておく丁度いい入れ物が無かったので、麦茶を入れる
容器に似た容器にいれて冷蔵庫で冷やしていました。
そこへ仕事から帰宅したご主人がいつもの通り冷蔵庫を開けて、コップに麦茶を注いで
いっきに「ゴクゴク…って、ゲーっ!これ麺つゆじゃないか!何でこんなもの冷蔵庫に
入れておくんだ!しかも麦茶と同じ入れ物じゃないか!」と激怒します。
すると奥さんも「なんでちゃんと確かめて飲まないのよ!よく見たら少し違う入れ物
でしょ!それに他に入れ物が無かったから、たまたまこれに入れて、しかも麦茶と違う
場所にいれてたのに!そんなに文句いうのなら、もう麦茶は作りませんっ!」と、お互いが
正しいと思っているからこうやってケンカになって行くんです。
だから善人の住む家は争いが絶えないのです。
逆に、もし麺つゆをいっき飲みしてしまったご主人がムセながら、「ゲホゲホ…ごめん!
麦茶と間違えて麺つゆ飲んじゃった!これ今日使うやつだった?よく見たら似てはいるけど
いつもの麦茶とは違う入れ物だった。ホントゴメン。俺ってホント不注意だよね…」と
言えば、奥さんも「あなた大丈夫?ごめんなさい。少し似てる入れ物だけど、麦茶と間違
えて飲むかもしれないから、もっと別の容器にしておけばよかった。私の配慮が足らない
ばっかりに。ホントにごめんなさい!気持ち悪かったでしょ?」とお互いが自分のことを
「悪い」と思っていたら、ケンカにはなりませんね。
ですから、悪人の住む家は仲睦まじいのです。
所詮、凡夫。
その凡夫の考える狭くて小さな理屈をぶつけ合っても、そこに正しさなんてありません。
そして自分が正しい、と考えること自体が驕りでもあります。
悪人である自覚を持ち、そんな悪人こそが救いの目当てだとして、隣に寄り添い、救いの
光を照らして下さるのが仏さまです。
悪人であると思うから謙虚になり、努力をし、そして相手を思いやることができるのだと
思います。
己は善人か悪人か…
この短いワードにはとても奥深い、そして重い教えが込められています。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)