皆さん、こんにちは。
今年も折り返し点に差し掛かりました。

毎月毎月このご法話原稿を書かせて頂いておりますが、本当に日々忙しさに追われ、
今日の反省と明日の目標確認すら出来ていない生活をしている自分に気付きました。

今日を7回繰り返すと一週間、この一週間を4回繰り返すと一ヶ月。
この一ヶ月を12回繰り返せば一年が過ぎます。
そう思うと「忙しい」という日をこうやって繰り返せば、ただ忙しいだけの人生で
終わってしまいます。


更には先月、55日に愛犬ティム君(ゴールデンレトリーバー)が亡くなりました。
私達夫婦には子供がおりませんので、本当に我が息子のように愛情を注いで育てて
きました故、亡くした喪失感は想像以上で、何もやる気がしない日々が長く続きました。

阿弥陀如来は「生きとし生けるもの全てを救う」と呼び掛けられておりますので、
ティムも浄土往生すべく、人と全く同じ葬儀を善教寺一心庵にて執り行いました。

法名は「安穏院釋諦夢(あんのんいんしゃくてぃむ)」。
とても穏やかな性格の子でしたので、安穏という言葉がまさにぴったりです。
「諦夢」の「諦」は「あきらめる」とも読めますが、元々の「諦」は「あきらかにする」
という意味があります。

その為、この字は経典にもよく出て来ます。
「すべて安穏であれ という夢をあきらかにする」という意味を込めた法名で、
宗祖親鸞聖人も「仏法ひろまれ 世の中安穏なれ」と強く願われておりました。

この法名を見る度に、ティムは常に私に「お父さん、穏やかでいてね」と願ってくれて
いるんだな、と思う毎日です。

そんなティムの為に費やした日常の時間がぽっかりと空いてしまいましたが、
言い換えれば、ティムが私自身のために費やす時間をこれから与えてくれるのだな、
とも言えるのだな、と受け止めています。

さて、冒頭から湿っぽくなりました。
今月頂きましたお言葉は、宗祖親鸞聖人が法然上人門下で学ばれておられた頃の
先輩にあたる「聖覚法印」という方が書かれた「唯信鈔(ゆいしんしょう)」という
書物があるのですが、これの注釈本として書かれた
「唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)」という著書からのお言葉です。

唯信の「唯」とはその字の通り、ただ一つ、であること。
また「信」とは疑いのない心、真実信心の心を言います。
つまり、阿弥陀如来の「生きとし生けるもの全てを救う」という本願他力にお任せして
自分の力で善根をおさめ、さとりをひらこうとする自力を離れていることを唯信という
と聖人はこの書物で仰せになられ、阿弥陀さまの救いを一点の曇りなく信じることの
重要性を説かれています。

皆さんもよくお勤めされている聖人の書かれた「正信偈」にも「正定之因唯信心
(しょうじょうしいんゆいしんじん)」と出て来ますね。

正定とは、浄土往生へ正しく定まった身であること。
その因とはただ、信心のみであるということです。
その真実信心の大切さを説かれている親鸞聖人ですが、同じくこの唯信鈔文意の後段
にて
「わたしたちは善人でもなければ賢者でもない。賢者というのは立派ですぐれた
人のことである。ところがわたしたちは、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる
心ばかりであり心のうちはいつもむなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかり
であって、真実の心がないわが身である知らなければならないというのである。
中略 自分自身がどのようなものであるかということを知り、それにしたがって
よく考えなければならない」

と仰せになられています。


手厳しい内容ですが、ここで重要なポイントは親鸞聖人が「わたしたちは…」と
言われているところです。

つまり親鸞聖人ご自身のことも含めていることなんですね。
この唯信鈔文意を書かれたのが聖人85歳の時です。
この頃には沢山のご門弟がおられ、また各地から教えを求めるために聖人の元を訪ねる
方がおられ、沢山の教えを求めるお手紙も受け取っておられる身でした。

そんな聖人ですら、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心しかない身であると
ご自身のことを考え、最後の最後まで煩悩の絶えない凡夫たる我が身を嘆き、反省して
おられたんですね。


これを「あなたたちは…」と上から言われると「ははっ!仰せの通りにございます」と
恥じますが、親鸞聖人ほどの方ご自身が「わたしたちは…」と仰せになると、この私は
それを通り越してもう穴に入りたくなるほど申し訳なく思えます。

親鸞聖人が一流と言われるところは、教えの素晴らしさのみならず、上から目線
ではなく常に同じ立ち位置たる「御同行、御同朋」の立場を最後まで崩さない謙虚な
姿勢にもあるのだと私は頂いております。

人間は謙虚でなければならない…誰もがそうわかっていることでしょう。
しかし、「自分は謙虚である」と思った時点から、既にそうではないのでしょうね。
私はヘリコプターのプロの操縦士で、かれこれ30年近く飛んでいます。
そして飛行教官…公務員ではないので元来は教官ではなく操縦指導員、インストラクター、
操縦監督者…民間での呼び名は実はハッキリしてはいないのですが、要は、人さまに
ヘリコプターの操縦指導をさせて頂いている身です。

30年近く飛び、飛行時間も数千時間あるのですが、私は自分の操縦を
「本当に下手クソだなー…」といつも思います。

別にアクロバットのようなことはしないのですが、ごく当たり前に離陸し、巡航飛行し、
着陸する、といった一連の飛行で「なぜもっと揺れないように飛べなかったのか」
「なぜあの時、飛行高度が少し狂ったのか」と、毎回反省しきりです。

更に操縦教員の資格を取って20年近いのですが、同じく「教え方、下手だな…」と
これまたいつも思っています。

「もっとわかりやすい表現はなかったのか」「デモンストレーションをして見せたが
本当にあれがお手本と言えるのか」と、やはり自分のことに納得がいきません。

いや、決して私が謙虚なわけではないんですよ。
単純に自分の思っていた理想のパイロット像、教官像に自分自身が全く届いていない
からなんです。


そればかりではありません。
それ以前に私は夫という身であり、一人の人間です。
また、お寺の住職という立場でもあり、一人の僧侶でもあります。
それぞれの立場で考えてみても、良き夫ではなく、立派な人間でもなく、住職としては
まだ半人前であり、僧侶として全然勉強不足です。

このようなご法話でも、きちんとまともなご法義を皆さんにお伝えできているのかも
わかりません。

そんな私ですから、親鸞聖人の「わたしたちは善人でもなければ賢者でもない。
賢者というのは立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは、仏道に
励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、心のうちはいつもむなしく
いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であることを
知らなければならないというのである。自分自身がどのようなものであるかという
ことを知り、それにしたがってよく考えなければならない」という仰せは、
本当に耳が痛いのです。

親鸞聖人がこの本を書かれた85歳まで、ご自身の心の内をずーっと内観され、そして
多くの人々のことをよくよく観察され、凡夫はどこまでいっても所詮凡夫なのだな…と
懺悔の心をもって書かれたお言葉なのだと思います。

浄土真宗の教えとは、阿弥陀さまのお救いの教えです。
そのお救いとは「南無阿弥陀仏」のお念仏であり、信心賜ることです。
信心賜り、お念仏しているから、もう既に私は阿弥陀さまの救いの手の中である、と
安心して気を抜いて生きていて良いのか?という疑念が湧きます。

だからとて、自力修業に励め、という事ではありません。
どうせ我ら凡夫は自力修業なんて出来ませんから。
私たちはあくまでも阿弥陀さまの本願他力にのみ救われる身です。
そこで親鸞聖人の「自分自身がどのようなものであるかということを知り、
それにしたがってよく考えなければならない」と仰せになるこのお言葉の行間に
込められた想いが「御恩報謝」なのだと私は頂いております。

怠けおこたるこのような情けない我が身であるのに、阿弥陀さまはそんな私でもお救い
下さる。
こんな私にでも「私を、命の親と信じて、どうかお浄土に生まれておくれ、何も心配は
いらない。必ず救うぞ」と遙か昔からずっと私にそう呼び掛けて下さり続けている
阿弥陀さまの大慈大悲のありがたくも勿体ないお心への御恩を決して忘れてはならない。
そして、ずっと呼びかけて下さっていたのに、長きの間、そのお声に背を向けて生きて
きたという愚かさへの自戒を込めた親鸞聖人ご自身に対するお言葉なのでしょう。

即ち、こんな怠けおこたる私を、念仏の衆生としてお育て下さった御恩をよく考え
なければならないという、とてもとても大切な忠告なのだと頂いております。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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