皆さま、こんにちは。
5月となり、日中は半袖で過ごした方が気持ちが良いですね。
先月は4月なのに真夏日を記録するところもあって、温暖化の影響がじわじわと
出て来てるのだな、と感じます。

5月27日には善教寺再建の起工式があります。
平成28年の熊本地震から7年が経ちました。
言い換えれば、再建まで7年も掛かってしまいました。
善教寺の古い資料を見ますと、善教寺は江戸時代に火事で焼失しています。
そして再建されたのが、なんと70年後なんです!
どの時代でもお寺の再建はとても大変な事業なんですね。
家を一軒建てるのとは大違いです。
この度地震で全壊した善教寺は多くのご門徒様方から温かい再建寄附を頂きまし
たが、このご門徒様方も地震の被災者なんです。
被害に遭ったご自宅などの修理にも大きな費用が掛かったであろう状況にも関わ
らず、お寺の再建の為に寄附をされるのも容易でなかったと思います。
ここにご寄附頂きました全ての皆様に、あらためて心から御礼申し上げます。
本当にありがとうごさいました。

そして再建にはまだまだハードルがあります。
と言いますのも、建築資材はどんどん値上がりし続けているんです。
建築屋さんも「毎月届くFAXは値上がりの通知ばかり…」と、ぼやいています。
5月から基礎工事に入りますが、それでもあまりにも建築資材が値上がりすると
工事そのものもストップする可能性もあるんです。
なので設計士さんも、値上がりを心配して工期を極力短くするように工夫され
場合によっては元大工である私も、極力コストを落とす為に内装工事のヘルプに
入らないといけないかもしれません。
日曜大工が趣味の方、どなたか一緒にお寺を建てていきませんか?
いや、冗談じゃなくて真剣に…

さて前置きが長くなりました。
人は常に何かを何かと比べて生きているんですよね。
たとえば、人の生活や所得、持っている車などと自分とを比べ「何で自分は…」
と憂いたり、自分はこっちの方が良いと思っていたとしても、他の人達があっち
を選んでいたら、迷って何が良いのかわからなくなる、または自分の考えを押し
殺して良くない物に賛同するフリをしてしまう。
はたまた、常に自分のモノサシで人を測るので、自分目盛りと合わなければ
「何だあいつは!」と腹も立つ。
不思議な事に、これらは全部誰かがしてるのではなく、自分が勝手にそうして
いるんですよね。
つまり、憂いているのも自分、迷っているのも自分、腹を立てているのも自分。
おかしな話ではないですか?
これらは全て「比べる」というところから来ています。

私たち人間は小さなころから、何かを比較し、また誰かから比較されて生きて
います。
「あの子は背が高くてモテるのに、自分は何でこんなに背が低いんだろう…」
とか
「隣の○○ちゃんはすごく勉強できるの、どうしてお前は頭が悪いんだ?」
と親から言われたり…
が故に競争心というものが芽生えます。
そして「自分は善であっちは悪」というように対比の目で物を人を見るように
なっていくんです。
だいたい人なんて、「自分はまとも、人は変わり者」という見方をしてるんです
からこりゃ仕方がない。
そして、「善」である自分基準と他が合致しないから、憂い、迷い、腹が立つ。
それ、本当に比べる必要ありますか?

要するに人は、自分の思い通りにならない事に憂い、迷い、腹が立つんです。
自分の思い通りにならないことを仏教では「苦」と説きます。
四苦八苦については以前もここでお話しましたが、再度ここでおさらいします。
最初の四つの苦は「生、老、病、死」です。
【生まれる苦】どの時代にどの場所で、どんな境遇で生まれるかは自分の思い
通りにはなりません。
【老いる苦】人は歳を取り、老いていくのですが、自分はこれをなんとか止め
ようとしてもその思い通りにはなりません。
【病となる苦】生涯病気をしないなんて人はいません。老いて体が衰えていけば
当然何かしらの病気を患いますが、これを自分ではどうにもコントロールする
ことは出来ません。
【死の苦】…やがて人は命が尽きます。不老不死など存在しません。
その死を自ら止めようとしてもそんなことは出来ません。
…これらが最初の四つの苦です。

さらにもう四つの苦があります。
【愛別離苦(あいべつりく)】人は愛する人と必ず別れが来ます。自分が先か、
相手が先かだけでやがて離れてしまう時がやって来ますが、自分でこれをどうにか
しようとしてもどうにもなりません。
【怨憎会苦(おんぞうえく)】どうしても憎い人、嫌な人と会わなければならない
のがこの世の辛いところです。でもそれは決して避けて通ることは出来ません。
それを自分でなんとか会わずにおこう、嫌な人の存在を無くしてしまおう、など
ということは決してできないのが この世の中です。
【求不得苦(ぐふとっく)】何かを欲しいと求めても全ての物が自分の思い通りに
得られることはありません。
【五蘊盛苦(ごうんじょうく)】そもそも人間の体の構造自体、あらゆるものを
求め、なんとか思い通りにしようとする要素があるので、苦そのものが絶えず出て
きてしまう。

最初の「生老病死」の四つの苦に、この四つの苦を足して八苦なんです。
お釈迦様はこの世を「一切皆苦(いっさいかいく)」と説かれています。
この世の中は全て苦に満ち溢れているということですが、つまり言い換えれば
これら全てが「煩悩」というものなんですね。

親鸞聖人は9歳で得度され、比叡山の横川の堂僧として二十年間必死に修行され
ました。
しかし、20年も必死に修行したのに「私の頭の中から煩悩が消えない」と悩み
比叡山を降りて法然坊源空聖人(法然聖人)の元を訪れ、「煩悩を断ち切れないの
が普通の人であり、阿弥陀如来はそんな人こそが救いの目当てである」という教え
を授かり、法然聖人に弟子入りされ、本願念仏に帰依されたんです。

あの親鸞聖人ですら煩悩を断ち切れなかったのですから、私のような煩悩まみれの
凡夫には自力でさとりをひらくことなど出来るわけがありません。
とは言え、少しでも「苦」は減らしてもう少し楽に生きていきたいのが人という
ものです。
先ほどお釈迦様は「一切皆苦」と説かれたと申しましたが、ご安心下さい。
そう言いっぱなしでは終わりません。
さらにお釈迦様は「四諦八正道(したいはっしょうどう)」を説かれています。
これは「四諦」と「八正道」とが組み合わされています。
「四諦」とは四つの諦めと書きますが、仏教では「諦」はギブアップの諦めでは
なく、「あきらかにする」という真理を表す意味で使われます。
ですから、四つの「苦」の真理です。

【苦諦(くたい)】…そもそも、生きることが本質的に苦の連続であるということ。
「四苦八苦」して生きる、とはまさにそのことですね。
【集諦(じったい)】…それらの苦には必ず原因があり、それは煩悩であるという
こと。満足を得られないからどんどん苦しくなっていく。じゃ、どうする?
【滅諦(めったい)】…原因が煩悩なんだから、煩悩を消せば苦は無くなる。
自分の思い通りにしたいという考えと現実を比較するから苦しくなるのだから、現実
を受け入れる冷静な心を持つ必要がある。それは何?
【道諦(どうたい)】…自分の価値観、世界観を変え、この世の中のものは自分の
ものではない、と認識する道である八正道(はっしょうどう)を実践する。

その八正道とは
【正見(しょうけん)】正しいものの見方をする。諸行無常を理解する。
【正思惟(しょうしゆい)】正しく冷静な考えを持つ。
【正語(しょうご)】正しい言葉を語る。相手に快適な話し方をする。
【正業(しょうごう)】正しい行いをする。人に迷惑をかけるようなことはしない。
【正命(しょうみょう)】正しい生活を送る。規則正しい生活は己の命に貢献する。
【正精進(しょうしょうじん)】正しい努力をする。善を為す。
【正念(しょうねん)】正しく自覚をする。己を見失わず、周りに流されない。
【正定(しょうじょう)】正しい瞑想をする。常に心と身体を落ち着かせる。

これが煩悩を打ち消す必殺技、「四諦八正道」です。
でも、親鸞聖人だってこれをご存知でその為の修行をされてきたのに全然効果が
無かった、というのですから「効果には個人差があります」なんでしょうか?
いや、仏言に虚妄無し!ですからそんなことありません。
親鸞聖人が二十年頑張ったって、自力で煩悩は消すことが出来ないほど、私という
人間にはそれだけ業が深いのです。
だからこそ、そんな煩悩を持ったままの私をまるごと抱きかかえて仏として仕上げ、
お浄土に生まれさせて下さる阿弥陀如来のお救いとお慈悲のお心がどれだけ大きく
深いのかがわかりますね。

親鸞聖人が法然聖人と出会われ、真のお救いに出遭えたとわかった時、親鸞聖人は
きっと大粒の涙を流してお喜びになられたのだと思います。
ですから、親鸞聖人は堕落して比叡山を下りられたのではなく、真に仏さまを信じ、
少しでも仏さまに近付こうとその道を求めて命懸けで山を下りられたのです。
その親鸞聖人がおられなければ、有り難くもかたじけない阿弥陀如来に既に救われた
身であるこの私の安心はなかったでしょう。
誠にありがたいことです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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