皆さま、こんにちは。4月となり、もうだいぶ暖かくなってきましたね…
と言いますか暑いですよね。
冬が来れば「寒い寒い」と暖かい季節を望み、夏が来れば「暑い暑い」と
涼しい季節を望む、身勝手な凡夫にございます。

今年になり、いよいよ善教寺の再建事業も始まりました。
まずは再建工事の前に、過去の諸々の精算からです。
一つ目は、境内地北側の隣地境界に積まれた石塀の撤去。
これは、隣地との間に大きな楠?が過去植えられていて、この楠を避ける
ように石塀が積まれていましたので、その分隣地に越境していました。
まずはこれの撤去。
そして二つ目は、北西側、南東側に高く積まれたコンクリートブロックと
お寺入り口に高く積まれた石塀の上部の撤去。
これは今の建築基準法に合致せず、地震が来た際にこれら高い塀が倒れて
そこに人がいた場合危険、という理由からの撤去でした。
平成28年熊本地震での震度7にも耐え抜いた塀だからむしろ安全では?
とも思うのですが、これをしないと新しいお寺の建築許可が下りないため
コンクリートブロックは上から4段、石塀は上から3段を撤去しました。
結果、お寺が明るくなり、開放感が出ました。

さて、今月の言葉です。
「学問は学ぶほど知識を得るが、仏教は学ぶほど己の至らなさ、愚かさを
知らされる」…この名言を作られたのは、熊本県は上天草市にあるお寺
満行寺(まんぎょうじ)の僧侶であり坊守でもあり、そして本願寺派布教使
でもある古川さなえ先生です。
古川先生…さなえ先生は善教寺のお彼岸や御正忌報恩講の時に雅楽器の
笙(しょう)
を奏でて下さったり、ご法話もして下さっている方ですので
ご存知の方も多いと思います。
さなえ先生は、住職の資格を得るために必要な「教師教修」という過程での
私の同期であり、また法話のエキスパートである布教使の資格を取る時の
同期でもあった方です。
さなえ先生はとても優秀で、私がモタモタしている間にさっさと布教使試験
にも一発合格され、今では私の先輩でもあります。
このさなえ先生が本願寺のインターネットを利用した僧侶の活動を知らせる
媒体「ウエブメディア」でのインタビューから出た名言でした。
さなえ先生のノートにはいつも小さな文字でいろんな事がびっしり書かれて
います。
以前見せて頂いたのですが「小さくて読めない!」と言った記憶があります。
それくらい、凄く書き込んで常日頃から勉強されている先生です。

皆さんも、今までいろんな学問を勉強されて来られたと思います。
私は昔から勉強は好きではありませんでした。
特に算数、数学系が大嫌いでした。
逆に国語、英語はなぜか好きでしたので、成績は極端に傾いていました。
今思うと、国語も英語もコミュニケーションに必要な課目ですので、計算して
何かを求めるよりも、人とコミュニケーションを取りながら一緒に何かをカタチ
にしていく事が好きな今の私を作ったのはこの時からだったのかもしれません。
いわゆる「文系」ですね。
私は他でヘリコプターのパイロットの仕事もしていますが、よく「航空の世界
って理数系ですよね?」と聞かれます。
確かに気象学や航空工学はカッコよく言えば物理学が基本になりますが、私に
言わせれば「小学校の理科」レベルの理解で十分です。
それよりも、何も無い三次元の空を真っ直ぐに飛ぶということの方が大変で
ここには計算も何もありません。
必死に大汗をかいて機体を揺らさないように、お客様を酔わせないように
怖がらせないように操縦しているので、どちらかと言えば「体育会系」です。
まあ、どうでもいい話ですけど…


学問…勉強って、「あまり好きじゃ無い…」と言う方、結構多いのではない
でしょうか?
だって、面倒ですもんね、勉強って。
でもなぜ好きでは無いのかと言うと、それは「よくわからないから」なのだと
思います。
わからないから、つまらない…これどんな事でも同じですよね。
でも、何か一つでもわかるきっかけが出来ると、どんどん絡まった糸が解けて
いくように、目の前に新しい理解が広がって行くので、面白さは加速していき
ます。
そうやって人は学んでいくんです。

それが学習というものです。

仏教も基本的に入り口は同じ感じで学んでいきます。
私も本願寺派布教使の端くれですが、学び初めはホントにつまらなかったです。
仏教という教えに対して何もバックボーンを持っていないまま、僧侶→教師→
布教使といっきに、しかも短期間で資格を取っていきましたので、学んだ事が
体に染み込んでいませんでした。
言葉もわからない、当然意味もわからない…しかし、絶対的に理解していたこと
はあります。
それは「阿弥陀さまのお救い」です。
こんな人として不十分でわがまま、自分勝手な私でも、阿弥陀さまの救いを微塵
の疑いもなく一心に信じ、阿弥陀さまの絶対他力によって救われる。
そして私は既に救われた身である事を知り、ひたすら感謝して御恩報謝のお念仏
をすること…単純な私はこれは理解できました。
だって、お世辞にも真っ直ぐに正しい道を、人生を歩んで来たとは言い難い自分
です。
そんな自分の行先は、天国やお浄土ではない事はうっすらわかっていました。
でも自分がこの世と縁が尽きた後の行先は、日々毎日の暮らしで精いっぱいです
からあまり心配はしません…先の事よりまず今日の事。
でも、ある時ふと「自分は死んだらどうなるのか?」と思う瞬間があります。
それはとても恐怖を感じます。
死んでしまうこともそうですが、もっとその先はどうなるのか?が心配で心配で
たまらなくなる。
そんな瞬間、誰しもあるのではないでしょうか?
そんな、私の後生の一大事を解決して下さる唯一の方が阿弥陀さまです。
そして、阿弥陀さまは常に私に寄り添い、支え、励まして下さり、更に私が悲し
い時は一緒に悲しみ、嬉しい時は一緒に喜んで下さる。
そんな阿弥陀さまが隣に居られるのですから、既に救われた身であるからとて、
何もせず今まで通りに自分勝手、自己中心で生きることは誠に申し訳なく思えて
きます。


仏教には三毒と言われるものがあります。
それは貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに)、愚痴(ぐち)と呼ばれるものです。

貪欲(とんよく)は、自分の求める物を際限なく求め続ける我欲の塊です。
ですから、足るを知らず、これがあればあれが無いと言い、あれがあればそれも
欲しいと求め、いつまで経っても満足せず、今度は求め得た物が減らないかと
心配をするようになります。
まさに自己中心的であり、こんな不幸はありません。


瞋恚(しんに)とは、怒りの事です。
そもそも、人はなぜ怒るのか?を考えた時、他人の言動やその結果が自分の期待
と異なるからです。
期待とは言い換えれば自分の「モノサシ」で、常に自分モノサシで人を計り
求めた目盛りと違うから頭に来る。
要は、「比べる」という思想からこれが起こります。

常に自分の期待と何かを比べ、思い通りにならないと怒りを感じる。
でも、ここまで申せばお分かりですよね?
期待しているのも自分、比べているのも自分、そして怒っているのも自分なん
です。
まさに自己中心的であり、こんな不幸はありません。


愚痴(ぐち)とは、真理をわかっていないこと、つまり何もわかっていない事
です。
そもそも人は自分がどういう人間なのか、わかっていません。
まあ大抵は謙遜はしても、その実、真の悪人とは思ってはいません。
だって、法律は守ってるし、罪も犯していないから。
強いて言えば一旦停止で止まらずにお巡りさんに見つかって反則金を払い
免許の点数が減ったくらいで、あとは誰にも迷惑を掛けていないから…
「愚」も「痴」もどちらも「おろか」という意味を表す漢字です。
でも「痴」に至っては、やまいだれに「知」ですから、知恵(智慧)が病んで
いる、つまり考え方が病んでしまっている、という意味です。
誰にも迷惑を掛けていない、人に迷惑を掛けないようにして生きてきた、と思う
のが人間ですが、実は気付かずに相当周りの人に迷惑を掛け散らして生きている
のが人間であります。
だから自分は自分のことが全くわかっていないのに、わかったつもりでいる。
まさに自己中心的であり、こんな不幸はありません。


これを学んだ時、常に「もっともっと」と求め、せっかちで気が短く、自分の
真の姿など微塵もわかっていない、誠に自己中心的で愚かな私が居りました。
阿弥陀さまの救いは真っ直ぐに私の心に刺さり、そして大きな声でお念仏して
おりますが、これらの教えは、すぐには身体に行き渡りません。
それでも、少しずつ、少しずつ、私の心と身体に染みわたり、間違った生き方を
してきた、至らない、愚かな私を修正して下さるのが、仏さまのみ教えである
「仏教」なのです。
そして、これを仏教では「お育てに遇う」と申します。

私と共に歩み、励まし、支えて下さりながら、私をお育て下さっている阿弥陀さま
のことを改めて思いますと、誠にかたじけなく、もったいなく、そして有り難い事
だと心から思いながらの、日々のお念仏にございます。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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