皆さま、こんにちは。あっという間の3月です。
先月このご法話でもご紹介しました、「ジャネーの法則」ですね。
つまり、何の新しい経験をしないまま、ルーティーンに追われてひと月を過ごした
証でもあります。

まあでも、極寒であった2月は早く終わって、暖かくなる3月が来たほうが幾分か
心にも余裕が出て来そうな気もします。

さて、先月「新しい領解文(りょうげもん)」が御門主のご親教にて発布されました。

領解文とはあまり馴染みもない方もおられるかと思いますが、これは浄土真宗第八代
門主の蓮如上人(れんにょしょうにん)が書かれたと言われるもので、浄土真宗に
おける阿弥陀さまのお救いについての信心の在り方を示されたものです。

原文は「もろもろの雑行雑修(ぞうぎょうざっしゅ)自力の心をふり捨てて
一心に 阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生(ごしょう)御たすけ候(そうら)
えと、たのみ申して候。
たのむ一念のとき、往生一定(おうじょういちじょう)、御たすけ治定(じじょう)
と存じ、この上の称名は、御恩報謝と存じ候。
この御ことわり聴聞(ちょうもん)申しわけ候こと、御開山聖人(ごかいさん
しょうにん=親鸞聖人)御出世の御恩、次第相承(しだいそうじょう=歴代の
ご門主)の善知識(ぜんじしき=七高僧の伝えられて来た浄土教の正しいみ教え)
の浅からざる御勧化(ごかんけ)の御恩と、ありがたく存じ候。
この上は、定めおかせらるる御掟(おんおきて)、一期(いちご)をかぎりまもり
申すべき候」…

とても深い意味がありますが、わかりやすく、かなり端折ってご説明しますと、

・諸々の自力修行などを打ち捨てた時、この世と縁が尽きた後の私を助けて下さる
のは阿弥陀以外には無い、と一心に頼り、助けて頂いた(安心=あんじん)

・わが身のこの世での命尽きた後の問題を解決して下さり、浄土往生が定まったの
だから、それからのお念仏とはその御恩に報いる感謝のお念仏である(報謝)

・この世との別れが来た後の一大事の問題を解決頂き、その喜びを得られたのは
宗祖親鸞聖人がこの事実を明らかにされ、またお浄土のみ教え、阿弥陀さまの
お救いを脈々とお伝え下さった七高僧のみ教えそのものを、間違いなく私に
お届け下さった歴代門主先生方のおかげであると、有り難く感謝します(師徳)

・これからは浄土真宗のみ教えを全力をもって、生涯守り続けます(法度)


…と、こんな感じです。
わかりますか?

ここで大切なポイントは、私たち衆生は命尽きてから救われるのではなく、
阿弥陀さまの「我にまかせよ、そのまま救う」という大いなる慈しみのお心を
一点の曇りもなく信じきることによって、今この状態で既に救われた身と
なっているつまり浄土往生が定まっているということです。
これを現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)と言います。

今この時点で既に救われ、命尽きた後はお浄土に往くことが出来ると決まっている
からこそ今のこの命を大切にする決意が起こり、そして目一杯生きる喜びと勇気を
与えられるんですね。
が故に、既に救われているのだから、私たちの唱えさせて頂くお念仏は、御恩報謝
つまり阿弥陀さまの御恩に報い、そして日々心から感謝するお念仏なわけです。
これこそが、浄土真宗の教義、み教えのど真ん中だと私は思います。
ところが、この度新しい領解文が発布されました。

南無阿弥陀仏
「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声。
私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ
「そのまま救う」が弥陀のよび声
ありがとう といただいて
この愚身(み)をまかす このままで
救い取られる 自然(じねん)の浄土
仏恩報謝のお念仏

これもひとえに
宗祖 親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

み教えをよりどころに生きるものとなり
すこしずつ執(とら)われの心を離れます

生かされていることに感謝して
むさぼり いかりに 流されず
穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも 悲しみも 分かち合い
日々に 精一杯 つとめます

 …これは、多くの方達に領解文をよりわかりやすく伝え広める為、とのこと
らしいですが、これを見た時まず最初に「長っ!」と思いました。
まあそれは良しとしても、先ほども申しましたように私たちは日々、御恩報謝の
お念仏をしております念仏者であります。

御恩報謝のお念仏とは、先に申し上げた通り、既に阿弥陀さまに救われた身で
あるのでそれに対する御恩、感謝のお念仏を表します。

「南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」と口を開き、声を出しているのは私です。
そして我が耳に聞こえるのも私の声のようではありますが、それこそが阿弥陀さま
からの「我にまかせよ そのまま救う」というお呼び声なのです。
実はこれ、注意しなくてはならないポイントなんです。
新しい領解文にも「そのまま救う」と2回出て来ましたね。
通常、人は「そのまま救う」と聞けば、自然に「このまま救われる」と変換して
理解するのが普通でしょう。

でもそれは二つの大きな誤りがあります。

まず一つ目は、「そのまま救う」は阿弥陀さまからの言葉であって、それを
ひっくり返して「このまま救われる」としてはならないのです。

「そのまま」は阿弥陀さまのお心、作願であって凡夫たる我ら衆生が
「なら私はこのまま」とイコールにはならないのです。


更に二つ目は、「そのまま救う」を「このまま救われる」と変換して捉えると
「このまま救われるのなら、自分は一切何もせず、ただ好き勝手し放題で生きて
いけば良いのだ」という、ただの居直りに成りかねないのです。

それは完全な間違いです。

阿弥陀さまのお救いの目当ては、放っておいたら何をしでかすかわからない、
とてもとても危うい「わたし」なのです。

しかし、救いの目当てであるこの「わたし」側が「わたしはこのままで良い」と
思うのであれば、救いそのものは要らなくなります。

言い換えれば、このままではいけないから阿弥陀さまは救って下さるのです。

現代風に申せば、医者が大病を患っている人に「私にまかせなさい。そのまま
治していくから」と言われて、「はい、先生を信じてお任せします」とは
言っても、「このまま治るんだ」とは簡単にはならないですよね?

大量の薬を服用し、場合によっては手術し、更にその後のリハビリや二度と病を
患うことのないように健康管理や食事にも気を付けるようになる。

そこには「わたし自身」の過去の反省と努力、我慢、忍耐が欠かせません。
ですから、いくら「そのまま」と言われても安易に「このまま」とはならない
ことがもうおわかりですね。


この「我にまかせよ そのまま救う」は、ご法話の場、お聴聞の場でよく
使われる言葉なのですが、今まで述べて来たように、誤解を招きかねない言葉
でもあります。

ですから私は「我にまかせよ 必ず救う 必ず浄土に連れて行くぞ」と
敢えて言葉を変えてお話しています。


宗祖親鸞聖人はご自身のことを「悪人」と呼ばれていました。
今で言う悪人とは、罪を犯したり人に迷惑をかける行為をする人のことを指し
ますが、もちろん親鸞聖人はそんなことはしません。

なぜ自らを悪人と称したのかと言うと、煩悩を絶てず、悟りを得られない
からです。

なので、同じく煩悩を絶てず、悟りを得られない私たちも悪人ということに
なります。

その悪人の自覚のある人が「悪人のままで良い」と居直るのは間違いです。
悪人の自覚があるが故に、自身で善行も出来ず、ただひたすら阿弥陀さまの
本願を信じ、そのお救いに頼るしかない身であるがこそ、自分はこのままで
良いと考えるのではなく、そんな自分を反省し、統制して生きていかなければ
ならないのではないでしょうか。


そうすればいまのこの命も、もう少し生きやすくなり、この世と縁が尽きる
その日まで勇気と希望をもって生きられるのではないかと思いますし
それこそが阿弥陀さまの願いに叶った生き方のでは
ないかと、私は思います。


合掌

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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