皆さん、こんにちは。
年が明けたと思ったら、あっという間に一月も終わりました。
歳を重ねるごとに、不思議と時間の流れがどんどん早くなるものです。
実はなぜそう感じるのか?を調べたところ、ちゃんとその理由がありました。
これは「ジャネーの法則」と呼ばれるもので、「生涯のある時期における時間の心理的
長さは、年齢の逆数に比例する(年齢に反比例する)」だそうです。
例えば、50歳の人にとっての1年は人生の50分の1ですが、5歳の人にとっては
人生の5分の1です。
つまり、同じ1年という時間の流れでも、50歳の人は5歳の人の10倍早く感じる、
ということらしいですね。
なぜそうなるかというと、経験が主因だそうです。
わかりやすい例で言うと、初めての場所に行くとき、行きは長く感じたのに、帰りは
早く感じませんか?
行きは、初めての景色が延々と続く、つまり新しい経験を積み上げて行ってるので、そ
れだけ時間が長く感じるのですが、帰りは一度見た景色、つまり経験済みの景色が目の
前を通過するだけですので、そんなに頭も心も使わない…だから、時間が短く感じる。
まあ言い換えれば、一年が早く過ぎるというのは、それだけ自身の経験値が高くなって
いる、という事ではありますが、新しい経験をあまりしていない、とも言えますね。
さて、前置きが長くなりましたが、今月もお釈迦様の教えである「法句(ほっく)経」
からのお言葉です。
人の過ち、ミス、間違いは本当によく目に付きますよね。
私はお寺の住職以外にも、ヘリコプターの操縦教員の仕事をしています。
訓練生の隣に乗ってあれこれ指導をするわけですが、まあミスや間違いが目に付いて
目に付いて仕方がありません。
でも本人は必死になってヘリコプターを飛ばしているので、いちいちあれこれ言っても
返事こそすれ、頭に指摘や指示は全く入りません。
ですから私はひたすら隣に座り、じっと我慢しながら揺られているだけです。
しかしながら、かくいう私も凡夫でありますので、完璧に飛べるわけではありません。
ちょっと油断したら高度は上がり下がりするし、速度も早くなったり遅くなったり…
三次元のコントロールですから、なかなかピッタリはいきません。
高度計の目盛り一つずれていても、乗ってる自分は小さな目盛りたった一つ狂っただけ
ですから、そんなに外れた意識はありませんが、実はビル10階分の高さを上がったり
下がったりしていることなんて、しょっちゅうあります。
もう30年近くパイロットをしていますが未だに「自分はなんてヘタクソなんだろう」
って思います。
私達夫婦には子供はおりませんので、いつも二人で家に居ます。
ですから、私の目には、家内しか映りません(犬と猫以外は)。
よって、自ずと家内の細かな行動が目に付いてしまいます。
「トイレの電気、点けっぱなしだよ」、「ドア開けっぱなしだよ」なんて言葉がついつい
出てしまうんですよね。
そういう私も家内から同じ指摘を受けています。
ひどい時なんて、お風呂にお湯を張ろうとして栓をするのを忘れ、延々とお湯を流して
しまっていたり、愛犬を連れて近所のコンビニに買い物に行き、店の外に繋いだまま
忘れて家に帰り、数時間後に気付いたり、なんて可哀想なこともありました。
「トイレの電気点けっぱなし抗争」は、ライトを人感センサーに変えることで解決しま
した。
しかしドアや諸々細かなミスは、なかなか解決しません。
なぜなら、人間は失敗をする生き物だからです。
「気を付ける」という便利な言葉がありますが、全てに気を付けていられる人はいませ
んし、目は顔にしか付いていませんので、左右、ましてや後ろは見えません。
「自分は完璧」と思っている人もおられるのかもしれませんが、それは間違いです。
なにかしらのミスは必ずしていて、それに気付いていないだけなんです。
その気付かなかったミスは、指摘されなかっただけか、誰かがそっとミスをカバーして
くれている、はたまた、実は自分のミスに気付いてそれをひた隠しにして記憶からも削除
している事もあります。
人命に関わるだとか、法に触れるような大きな事は別として、細かなことは指摘する側
もされる側も、気持ちの良いことではありません。
トイレ以外にも、洗面所や廊下、階段ホール、玄関などのライトは、いちいち指摘しな
いで、気が付いたらそっと消す。
ドアも開けっ放しだったら、そっと閉める。
それで事は足ります。
人の振り見て我が振り直せ、という言葉もあります。
自分の背中には目が付いていません。
だからこそ、「自分は失敗をする生き物である」という前提で生きるようにすれば人の
過ちには寛容になれるのでしょうし、自分の過ちにこそ厳しく自らを律するようになって
いけるのでしょう。
同じく法句経に「忍耐、堪忍こそ最上の行である」という教えもあります。
また「他人に教える通りに、自分も行え」という教えもあります。
とても耳の痛いお言葉ですが、お釈迦様はこんな私を見抜いて下さり、2500年もの時
を越えて、その教えを私に送り届けて下さったと考えますと、なんてもったいなく、そし
て、かたじけなくも有り難いことだと手を合わせるばかりです。
合掌
善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)