皆さまこんにちは。
いつもは月が明けてからこのご法話をアップしていますが、今回私・西守が長期出張に出る
関係上、月が明けてからすぐにアップできませんので、今回は10日ほど早いですが、12月
のご法話をご紹介させて頂きます。

今年も最後の月となりました。
なんか今年は「もう○○月ですね…」と始まる言葉を多く使った年だと思います。
とにかく忙しい…毎年そう思うのですが今年はそんな記憶がより強く残った年です。
お寺もいよいよ棟上げが始まり、ことさら忙しくなりそうですが、忙しいと言わせて頂ける
のもありがたい事ですね。
ヒマならヒマで困りますし、暑ければ暑いで「涼しくならないかな」と漏らす凡夫。
それが効いたのか、今年は秋が無く、いっきに冬になりました。
不平不満が多いのは、何でもかんでも当たり前に思い、そして感謝が無い証拠です。
生きていられるだけで幸せ…それを忘れたら不幸になる。
そしてまたそれを忘れて不平不満を言うわたし。
これこそが凡夫たる所以なんでしょうね。
ここ最近急に寒くなったせいか、ご葬儀も多く続きました。
導師としてお勤めをさせて頂く度に、「自分は今日もなんとか生きている。でもご故人は
今日を生きたくても、生きられなかった…生き続けたくても命をつないでいくことができ
なかった無念さを思うと、どうしてこの口から不平不満を言えようか」と、反省しきりな
最近の私です。

さて、今月の法語…といってもこれは仏教の法語ではなく、中国古典からのお言葉を頂き
ました。
呻吟語(しんぎんご)という中国古典で作者は中国儒教の思想家、呂新吾という人です。
今から400年前に書かれた書物です。
呻吟とは、病気の人がその苦しさにうめき声を発する事を表すのですが、この苦しい世の中
において、様々な人間関係などにおける迷いや苦しみながら生きる様子の比喩なんです。
そんなうめき声をあげながら必死に生きる人々の為の処世訓として書かれたのが、呻吟語。
私がなぜ呻吟語を知っているのかと申しますと、今から約20年前、京セラ創業者である
故・稲森和夫さんの「生き方」という本を読み、その中で稲盛さんが「私は若い頃、先輩
から、“中国古典を読んで勉強しろ”と言われて、必死に勉強しました」と書いてあったん
です。
単純な私は、「中国古典を読めば、自分も稲盛さんのような立派な経営者に成れるかも
しれない」と思い込み、片っ端から読み始めたのがきっかけです。
孔子の論語に始まり、老子、荘子、孟子の書や孫子の兵法またこの呻吟語や韓非子、菜根譚
はたまた、三国志なども読み漁りました。
これらの本はブックオフなどで安価で簡単に手に入りましたので助かりました。
でもこういう書物は一度読んだだけではカンタンには心に入って行かないんですね。
何度も何度も読み返していく内に、最初に読んだときとはまた違った印象に感じてきます。
そしてある時ふっと、「あ、あの言葉って、こういう意味だったんだ…」と腑に落ちてくる
から不思議です。
仏教の経典(お経)もそうです。
後から後から、「あぁ、こういう意味だったのか…」と忘れた頃に降って来るんですから
不思議ですよね。
それでもそこで100%わかったわけではなく、またしばらく経つと「奥深さ」がわかって
来ます。
きっと、生きている内に全てを理解することは出来ないのかもしれません。
つまり、ものごとは決して一義的ではなく、またどれも正解でどれも間違い。
ベターはあってもベストは無いし、白か黒かで考えながら自分はグレーの中で生きている。
そうやって広く考える思考を持つことが大切なんだという事を教えてくれるために、稲盛
さんは「中国古典を読みなさい」と本を通して私に教えてくれたのだと思います。

その呻吟語の中に出てくる私の大好きな一説。
「水の千流万派は、一源に始まる。木の千枝万葉は、一本に出ず。人の千酬万応は、一心に
発す。身の千病万症は、一臓に根ざす。千万に眩(げん)するは、挙世の大迷なり。直に
原頭を指すは、智者の独見なり。故に病は一を治めて千万除かれ、政は一を理(おさ)めて
千万皆挙がる」。

語訳は、「一つの川はたくさんの水の流れから成っているが、元をただせば、たった一つの
源流から流れている。木にはたくさんの枝葉があるが、これも元をただせば、一本の幹から
出ているもの。人間にもいろいろなことが起こるが、それも元は一つの心から発して起こる。
身体のいろいろな病気は、元を突き詰めると一つの臓器から端を発している。枝葉末節なこ
とに振り回され、惑わされるのは世の大きな迷いが原因。これに対して知恵ある者は、その
根源を追求する。病は病気と成る部分を一つ治療することで全ての症状が消えるし、政治は
一つの問題を追及し、元となっている部分を処理すれば、殆どの問題が解決して丸く収まる」
ということです。

どんな物事にも必ず「元」となる原因があります。
そこに目をやらず、末節のできごとだけ対処しても何の解決にもなりません。
人間関係のトラブルもまさにそれで、ちょっとしたことに端を発し、「言った」「言わない」
「やった」「やらない」の水掛け論に解決の道はありません。
派生したことより、大元の原因に着目して解決を図らなければ、無駄な時間とエネルギーを
浪費するだけ。
あまり物事をよくわかっていない人ほど、物事を難しく言うし、ややこしく複雑にすると
言われています。
真実はたった一つですし、発端となった原因もたった一つのことである事が多いんです。
所詮人のやる事。
そんなにあれこれ一度には考えられるわけが無いですね。
だからまずシンプルに考えるのが最初のステップなんだと思います。

どんなにとっちらかった人間関係でも、目の前の問題でも、そこの大元の原因をよくよく考え
そしてそれをどうすれば物事が良い方向に流れるのかを考える。
一見カンタンなようで、実は意外と知られていない原理原則なんですね。

よくあるのが、とある人に間違いを指摘された。
間違っていたのは自分なのだけども、あの言い方は気に入らない。
しかも大勢の人がいる前で!…そこからトラブルになります。
でも良く考えると、「間違っていたのは自分なのだけども…」が完全に棚に置かれて、相手の
指摘の仕方にしか焦点が合っていません。
そこではなくて、「間違っていたのは自分」についてよく考えれば、「あそこで指摘されなけ
れば、今後も間違い続けて取り返しのつかないことになっていたかもしれない」と思えません
か?そうすれば指摘されたことに「ありがとう」となりませんか?

その逆。
「間違いを指摘してあげたのに逆ギレされた。なんでこの私がキレられなければならない
のか?おかげで、多くの人達の前で恥をかかされた…」の場合、多くの人達の前で恥を最初
にかかせたのは、自分なんですね。
もちろん間違いを指摘したのは親切心でしょうし、その人を救う行為だと思います。
でも、言い方や言うタイミングが大元の問題だと気付けば、相手が何に対して傷ついたのか
がわかることだと思います。

そんな大元とは関係ない「その後にこう言われた」「ああされた」の方向にどんどん傷口が
広がっていくから、もう収集つかなくなるんです。

会社経営や商売でもそうです。
最初は「自分の提供できるサービスで多くの人達に喜んでもらいたい」からスタートしたはず
が、少し売り上げが伸びて来ると、お客さんの笑顔よりも、売上高に目が向いてしまい、道が
どんどん逸れていきます。
拝金主義となって、店前の木を枯らしてしまったり、修理に入った人さまの車を更にキズ付け
て修理費を水増しし、保険金を不正請求する車屋さんの問題が世間を騒がせたのはまだ記憶に
新しいかと思います。

人間関係のトラブルも、商いでの問題も、上手くいかない時はその多くが大元から逸れている
ことが殆どです。
そんな根源を見失うから迷い、苦しむ…という教えでした。

私も自身で崩れた善教寺継がせて頂き、はや七年が過ぎました。
もう「新米僧侶でして…」なんて甘えることはできません。
そして僧侶と成るため、お得度させて頂く際に私自身と約束したことがあります。
それは
「わたしは 御門徒衆の心のよりどころとなる僧侶になります」
「わたしは 善教寺を必ず再建します」
「わたしは 善教寺発展に尽力します」
「わたしは 後継者を育て善教寺の歴史と伝統を守ります」
です。

【私との約束。僧侶になる前に自身で書き込みます】

これが、僧侶・西守騎世将(釋 一心)の僧侶としての原点であり、今私を動かしている大元
となっている根源です。
これから逸れていけば善教寺は再建できませんし、続いてもいきません
多くの方達がたくさんお参りに来られる、居心地の良いお寺にして参りますが、たとえどんな
に人々が集まり、栄えたお寺となったとしても、私の根源である「わたしの約束」から道は
逸れることは決してありません。
目先の物事なんかより、阿弥陀さまのお救いに出逢えた喜びにまさるものは無いのですから。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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