皆さまこんにちは。
善教寺の基礎工事が無事に終わりました。







段々新しいお寺の概要が見えてきましたね。
当初の計画では棟上げは11月初旬でしたが、建物の高さを全体に少し高くしたい、という
私のリクエストの為、建築確認申請を一部計画変更申請する必要がある為、一カ月ほど遅れ
るようです。
年内に棟上げ出来れば、と思っております。

さて、今月のテーマは「執着」と「苦」です。
そもそも、執着とは何か?からお話しますが、執着とは「一つのことに心をとらわれて、
そこから離れられないこと」を意味します。
人は多くのことに執着して生きています。
例えばお金、地位、名誉、権力などなど。
執着のしかたは人それぞれだと思いますが、執着の定義からすれば、視野が狭くなって他の
大切な物事が見えなくなっている、いわば妄信的な状況はいずれも同じです。
最初はとある対象を目標と定め、そこに向かって努力をしていたはずが、いつの間にかそれ
しか目に入らず、状況が変わりそこにあまり価値を見出せなくなってしまっても、そもそも
正しいことでも無かったとしても、一つの事に固執して場合によっては人に迷惑を掛け、
争い、犯罪に成ることもあります。
世の中のニュースとして取り上げられている犯罪の多くは「お金」にまつわる事ではない
でしょうか。
お金は大切ですし、生きていく上でなくてはならないものでもあります。
しかし、それ以外…生きていく上で元来必要のないものにのめり込み、その為にお金を求め
執着し、「貸せ」「返せ」にまつわる事件、犯罪はよく耳にします。
例えばそれらはギャンブルへの執着、嗜好品、ブランド品への執着などですよね。
私はギャンブルはしませんのでその楽しさはわからないのですが、ある意味ゲームとして
予め予算と時間を決め、そこで切り上げるのであれば何の問題もないかと思います。
しかし、損失分を取り返す為に周りと自分自身を見失い、結果として大損をし、またそれを
取り返すために借金までして更に続けてしまう。
もうそこには「目標」などなく、単に執着しかありません。
ブランド品もそうですね。
お金を貯めてやっと手に入れた一品…しかし手に入れた途端に新作が発表され、今度はそれ
が欲しくて欲しくてたまらなくなります。
ギャンブルやブランド品が無かったら、人間は生きていけない、ということはありません。
でもいつの間にか、それが無ければ自分の人生に価値は無い、くらい妄信的に視野が狭く
なっていってしまいます。
カルト教団はまさにそんなコントロールをするのですが、実は執着という一人カルト教に
多くの人達が人生を狂わされています。

そんな執着にとらわれると、それに比例して「苦」が生まれます。
なぜなら、求めれば求めるほどその欲求は際限なく増していき、結果として満たされない
のが人間の煩悩だからです。
満たされない、自分の思い通りにならない、だから心が苦しい。
その苦しさを解消するためにまた何かを求めるのだけど、例え手に入れても、または手に
入らなくても、どちらもまた満たされずに苦しさを感じる。
そんな負のスパイラルに入って抜け出せなくなるんですね。

お釈迦様はこの世を「一切皆苦(いっさいかいく)」と説かれました。
つまり私たちは「苦」の世界に生きる生き物なんです。
でも、苦を感じるのは自分が「もっともっと」と執着し、求めるから。
足るを知り、今に感謝し、有り難い自分の命を最後まで大切に生きる、という幸せに気付け
なければ、ずっと苦を感じ続ける命を生きることになります。

「不幸とは、自分が今幸せであることに気付けないこと」という言葉を聞いたことがあり
ます。
また、「幸」という字は、裏返しても、天地さかさまにしても「幸」という字になります。
これは人がどんな状況であっても、たとえ人生が波乱万丈であっても、命ある今こそが最大
の幸せなんだという事をお聞かせ頂いているのだと思います。
結局人間の苦とは、人間が自分自身で作り上げ、そこに苦しみを感じているだけのことなん
ですね。

でも、執着はいろんな苦を生むので、執着し無いように生きましょう、といった簡単な
話でもないんですよね。
私は、人間、いや生きとし生けるあらゆるものが執着しなければならないことがたった一つ
だけあると思っています。
それは「命」です。
私たちは何の選択肢もないまま、この世に生を受けました。
望んだ命であろうと、「あれ?ちょっと違う…」であろうと、結局今の命に全責任をもって
生きていかなければなりません。
ですから、その命には執着すべきだと思うんです。

実は、この法話原稿を打つ直前、愛犬ティムに続いて愛猫「ドン」を亡くしました。
ドンはとても穏やかで甘えん坊。
いつも私の枕元で寝ていました。
しかし約一ヶ月前、悪性のリンパ腫で余命一カ月と診断されてしまいました。
とてもショックでしたが、ドンは違いました。
少しでも生き抜こうと、ヨタヨタしながら水を飲み、あまり食べられなかったですがご飯
も一生懸命食べようと努力をしていました。
やがて腫瘍が腸を押し挟んで排便出来なくなり、水すらも飲めなくなりました。
それでもドンは「ぼくは大丈夫だよ」と言わんばかりにいつものように枕元に来て、喉を
ゴロゴロ鳴らしながら寝てくれていました。

ドンは最後を迎える頃はとても苦しそうでしたが、それでも自分の命を生き抜こうとして
いました。
そんな苦しさや辛さを抱えていたはずのドンは、そのすべてを引き受けて命を全うする大切
さを教えてくれました。
「ドンが大切だ。かけがえのない命なんだ…」という私の思いが伝わるだけで、ドンは最後
までどんなに苦しくても辛くても生き抜いたんです。
そしてその尊さを、ドンは命懸けで私に教え、お浄土へと旅立ちました。
このドンの生き様こそが、私たち一人ひとりに願われた仏さまの想いなのでしょう。

最後に、親バカですがこの子がドンです。


ドンは子供の頃、あの矢沢永吉さんのお嬢さんで同じくミュージシャンでもある矢沢洋子
さんのアルバムジャケットを飾った子なんです。


ドンは病気やあらゆる「苦」から解放され、お浄土で大好きだったお兄ちゃんのティムと
仲よく遊んでいると思います。
命という絶対に執着しなければならないものがある。
しかし、我が命への執着でもやはり様々な苦が伴う。
でもそこから逃げずに、自分の命に責任をもって最後まで生き抜く、というドンが私に
示してくれたことに、自分の命の意味とその尊さを知るのだと、学びました。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺 住職
本願寺派 布教使

釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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