皆さまこんにちは。
今年の夏は本当に暑かったですね。
朝晩は涼しく感じますが、日中はまだまだ日差しが強いですね。
私は毎朝、早朝ウォーキングを欠かさず行なっています。
約1時間ほど歩くのですが、これは健康の為と、実はご法話の練習の為でもあります。
各お寺さんを回ってご法話をさせて頂くのですが、これを定例(常例)布教と言い、
私たち布教使は割り当てられたお寺さんを回って、そこに集まったご門徒様方に
いろんなお話をさせて頂くんです。
このご法話の事を「お取り次ぎ」とも言います。
仏さまのみ教え、仏法を多くの方々にお取り次ぎをさせて頂くからです。
通常は前半40分お話をし、休憩を挟んで後半40分の計80分のご法話をするのが一般的な
常例布教のスタイルです。
なので、ブツブツ独り言を言いながら歩くのですが、「この場所あたりで話が終われば
概ね40分」という目安がわかるので、お話のペースを掴みやすいんです。
そして、前半もしくは後半いずれかのお話をしてみて、残りの20分で「他にもっと
わかりやすい表現が無いか?」、「こんな話の組み立て方で伝わるか?」など反省し
また翌日に改良した内容で一人でブツブツ言いながら歩くんです。
しかし、今年の夏は異常すぎるくらい暑かったので、いくら早朝とはいえ、汗びっしょり
ですし、朝から照りつける太陽の日差しに何度も挫けそうになりながらの、「ほぼ部活?」
のような、ご法話のトレーニングでした。
最近では地球温暖化を通り越して、地球沸騰化とも言われるほど、世界中の気温が上昇
しています。
世界中でも気温上昇により発生した雲による豪雨で川が増水し、リビアではダムが決壊
して大洪水となり、多くの人命が奪われました。
そして最近ではこのダムの決壊は人災だとも言われていますね。
ご存知の通り、リビアは内戦が続いており以前から指摘されてきた、このダムの老朽化
による危険性はほったらかしにされてきました。
それによりこのダムは決壊してしまった、つまりは堰堤が崩れるべくして崩れたとも
言われています。
この内戦もそうですが、ロシアのウクライナ侵攻も、当事者はそれぞれの正義という
理屈を持っているのですが、結局は領土や財、権利、権力といった、本来、人には
さほど大切なものでは無いことの為に争っていることが殆どではないでしょうか。
浄土真宗における最も大切にされている経典で仏説無量寿経という経典があります。
これは「大無量寿経」や「大経」とも呼ばれています。
この経典の中でとある物語が出てきます。
昔々とあるところに「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」という仏さまがおられました。
この仏さまは、世に自ら在って(現れて)衆生を救済されていたそうです。
同時期に、とある国の国王がおられました。
この国王の名前は仏説無量寿経には出てきませんが、実は親鸞聖人の自筆のメモでこの
国王の名前が記された物が残っているんです。
このメモの名前は「曇摩訶菩薩文(とんまかぼさつもん)」という名前なのですが
三重県の津市にある真宗高田派の本山・専修寺(せんしゅうじ)で保管されています。
そしてこのメモには「この国王の名前は、無諍念王(むじょうねんおう)である」と
書かれています。
さて、この無諍念王はいつも暗く沈んでいたそうです。
なぜなら自国の民が争い合ってばかりいるからです。
この国王は無諍念王という名の通り、諍い(争い)の無い事を念じる王様ですので
自国の民が争い合うことにとても心を痛めておりました。
そしてある時、この無諍念王は世自在王仏の説法を聞く機会に恵まれ、そのお話を
聞かれましたが、結果、とある事を悟ります。
「人が争うのは、地位や財産、名誉、権利、権力といった、本来、人には必要では無い
ものを奪い合うからである」という事だったんです。
これらのものを血眼になって得たとしても、そんなものは命尽きてしまえばそれで
終わり、どこにも持っていけません。
なのに愚かにもそんなどうでもいいものを得ようとお互い争い合っている。
しかも、皆が得ようとしているそれらの「どうでもいいもの」を最大に持っている
のが、王たる自分自身であった事にも気付くんですね。
そして一念発起し、王位を捨て、国を捨て、持つもの全てを捨てて、無諍念王は
世自在王仏に弟子入りします。
弟子入りして名乗った名前が「法蔵(ほうぞう)」…そう、皆様が普段お勤めされて
いる正信偈に出てくる法蔵菩薩なんです。
法蔵菩薩は、どうでもいいものを得ようとして迷い苦しみ、そして争う、生きとし
生けるあらゆる命という衆生を救おうと想像もつかない程の長い時間を掛けて
「四十八願」という誓願を考えつきます。
そしてこれを現実のものにする為に今度は兆載永劫(ちょうさいようごう)の長い長い
修行に入られます。
兆載永劫とは、終わりのない永遠のような長い時間を表す言葉です。
そして大変長く大変な修行を終えて誓願を成就し、法蔵菩薩は阿弥陀仏という仏さまに
成られました。
この物語を振り返ってみますと、無諍念王という国王が自国の民を憂い、世自在王仏
に弟子入りして法蔵菩薩となり、長い修行の果てに阿弥陀仏と成った、という単純な
話で終わってしまうかもしれません。
しかし何故、無諍念王は出家して一切衆生を救うために菩薩道を歩み、誓願を成就
して阿弥陀如来に成られたのか?を考察しないと、この物語から学ぶことは無くなって
しまいます。
親鸞聖人の作られた正像末和讃の中でこういうご和讃があります。
如来(にょらい)の作願(さがん)をたづぬれば
苦悩(くのう)の有情(うじょう)をすてずして
回向(えこう)を首(しゅ)としたまひて
大悲心(だいひしん)をば成就(じょうじゅ)せり(註釈版聖典六〇六頁)
このご和讃は、「阿弥陀如来がなぜ、一切衆生を救おうと願い立たれたのか?を
お尋ねしたとしたら(如来の作願をたづぬれば)、あらゆることに迷い苦しみながら
この世で生きる私たち衆生(苦悩の有情)をどうしても放っておくことが出来ず
(すてずして)、真実まことのやすらぎを与えたいと願って、大変な修行の成果
功徳のすべてを私たちに回し向けることを第一とされ(回向を首としたまひて)
大いなる慈しみのお心、菩提心によって衆生救済の道を成就してくださったのです
(大悲心をば成就せり)」というみ教えであり、阿弥陀如来のお徳を讃えたものです。
阿弥陀さまは、あらゆることに迷い苦しみながら生きる私たち衆生のことをよく
理解されていたからなんですね。
例えば、大切なお子さんが病気で苦しんでいる時に、親として「何としてでも
この子を救いたい!出来ることは何でもしてあげたい!」と思われるのはごく自然
のことだと思います。
以前のご法話でもお知らせしましたが、私は愛犬のゴールデンレトリーバーを今年の
5月に13歳で亡くしました。
とても穏やかで優しく、そして従順で賢い子でした。
私と家内が言い合いをすると、すぐに間に入って「もうやめて!」と本当に仲裁に
入るほど争いが嫌いな子でした。
私たち夫婦には子供がいませんので、この子=ティムは本当に私たちの子供のように
愛情を注いで育ててきました。
しかしながら肺炎を患い、とても苦しそうに呼吸をしているのを見ていて
「出来ることなら代わってあげたい!そして一秒でも早く良くなって楽になって
もらいたい」と心の底から思いました。
残念ながら、動物病院に入院し酸素カプセルに入った翌日にティムは息を引き取り
ましたが、こんな経験をして、阿弥陀さまが辛そうに、迷いながら、苦しみながら
生きる一人ひとりの「わたし」をご覧になられて、きっと同じように思われた
のだと、少しだけ阿弥陀さまのお気持ちに触れたような気がします。
いくら仏さまであっても、迷い苦しむ命と入れ替わることはできません。
しかしながら、迷い苦しむ命を終えた後に、真実の安らぎを得られる道と場所を
造ることなら出来る!…法蔵菩薩はそう考え、大変長い時間を掛けて四十八の
誓願(本願)を立てられ、さらにこれを現実のものとする為に兆載永劫の
とてつもなく長い、永遠に終わることの無いであろう修行を続け、ついに
その誓願を成就され、阿弥陀如来と成られたのです。
仏願(ぶつがん)の生起本末(しょうきほんまつ)という言葉があります。
これは、仏さまが衆生を救済するために願い立たれた由来と、その願いを成就し
現に我々衆生を救済しつつあること、を表します。
その衆生救済のために、阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」という名号の仏さまに
成られました。
つまり、お念仏という仏さまです。
愛犬ティムが苦しんでいる時にティムの頭を撫でながら「苦しいね、苦しいね。
でもお父さんがずっとそばにいるからね。何も怖くないよ。大丈夫だよ」と
私がティムに語り掛けていたのと同じように、私たち衆生が辛いとき、
悲しいとき、嬉しいとき、といったあらゆる心持ちで申すお念仏=阿弥陀さま
への語り掛けに対して、我が耳に聞こえるのは「大丈夫だよ、大丈夫だよ。
いつも私が隣にいるよ。その悲しみは私が引き受ける。その喜びは倍にして
あなたに笑顔になってもらう。あなたのことは決して見捨てることは
ないからね」と阿弥陀さまがわたしに語り掛けて下さっています。
私たち衆生は、病気で辛い、苦しいだけではありません。
わかっていながら、分不相応である地位、名誉、財産、権威権力を求め
そして互いに苦しみ、争うことをしてきています。
そればかりではありません。
優しい言葉にも気付かないフリをし、愛情ある施しにも当たり前と考え
人には辛く当たってしまうわたし。
今思い通りになっていないのは、本当は自分が原因であることをわかっている
くせに、他人や世間のせいにしてしまうわたし。
実はわかっているのに…
でも、わかっていても、どうしてもそんな生き方になってしまう、そんな矛盾を
抱え、迷い苦しみながら生きる「わたし」をご覧になられたからこそ、
阿弥陀さまはどうしても、そんなわたしを放っておけなかったんですね。
だからこそ、「可愛い我が子を何としてでも、何が何でも救いたい!」と
思う親の心のように、わたし一人を救いの目当てとして、大変な修行を
成し遂げられ、確実にわたしを救う道を作って下さった。
それが、阿弥陀如来という仏さまです。
にも関わらず、阿弥陀さまはわたしになんの見返りも求めておられません。
可愛い子供に親が見返りなど求めないのと同じですね。
ただ、願っておられるだけです。
「どうか我が名を呼んでおくれ。私を信じてお浄土に生まれておくれ」とだけ。
それこそが、南無阿弥陀仏のお念仏であります。
浄土真宗はお念仏の宗教です。
とてもお念仏を大切にしています。
なぜならお念仏そのものが、阿弥陀如来さまだからです。
阿弥陀さまは常に私の傍に寄り添っておられる証でもありますね。
だから、わたしは決して孤独ではない、一人ぼっちでもない。
本当にありがたいことです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)