明日ありと思う心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは

親鸞聖人

みなさん、こんにちは。
ここのところ、毎回「コロナ大変…」なトピックで始まっていますが、世間は本当に大変ですよね。
私も八月は新型コロナに感染しお亡くなりになられた方のご葬儀を二件担当させて頂きました。
一名は施設におられた名古屋の年配の女性で、施設内でクラスター感染し物故されました。
もう一名は熊本の善教寺の男性のご門徒さんで、実は癌でホスピス外来に通っていたそうですが、
通院も大変になって来たので入院となった途端に院内感染し、そのままお亡くなりになられました。
奥様は「あまりにも急すぎて…」と、肩を落とされていました。
癌で余命半年と言われていたそうですが、少しでも余命を伸ばそうと入院したのに、まさかコロナで
こんなにも早くお亡くなりになられたのは、「残念」という言葉では済まされません。
まさしくこの世は無常であり、老少不定の境…いつこの世と縁が尽きるのかギリギリの境で生かされ
ていることを思い知らされた出来事でした。

さて、今月のご讃題はその綱渡りのような人の儚い命について親鸞聖人の詠まれた和歌です。
親鸞聖人が9歳の時、仏門に入る為に京都の青蓮院(しょうれいいん)というお寺に出向かれ
慈円和尚(じえんかしょう)をお訪ねになられました。
しかしその時既に夜も更けておりましたので慈円和尚は「今日はもう夜も遅いので、得度は明日に
しましょう」と提案されました。
その時にまだ9歳の親鸞聖人は慈円和尚に向かって
「明日ありと思う心のあだ桜 夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは…」という和歌を詠まれ、自分の
思いを伝えられたそうです。
この歌の意味は、「今美しく咲いている桜の花は、明日もまた同じように咲いていると思われるかも
しれませんが、夜中に嵐が吹いて桜の花が散ってしまうことはないと言えましょうか?」という内容
です。
親鸞聖人はご自身の命を桜の花にたとえらえられ、「明日も自分の命があるかどうかはわからない。
だからこそ、今この場で得度の儀式をしたい」という、とても強い思いからでした。
これに慈円和尚は心を打たれ、その場で得度式を行ったそうです。
これに倣(なら)い、浄土真宗では今でも日が落ちてから、蝋燭の薄明りの中で、厳かに得度式が
行われています。

その後の親鸞聖人については、このホームページの「宗祖・親鸞聖人について」に記しております
のでそちらに詳細は譲りますが、親鸞聖人のお生まれになった850年前は平安時代の末期であり、
当然ながら今のように医療は発達しておらず、またルールも現代のように厳しく制定されていません
でしたので、何か揉め事やトラブルが起こるとそのまま命の取り合いにもなるという、本当に生きる
事がとても難しい時代でした。
そんな、明日も生きることが全く当たり前でない時代に生きておられたからこそ、「今日はもう遅い
から、また明日ね…」という事は幼き親鸞聖人にとっては到底受け入れられなかったのも頷けます。

さて今の世を鑑みますと、「最近は治安が悪くなった」とは言いつつも、850年前よりは遥かに治安
が良く、街中には防犯カメラが溢れ、犯罪は常に監視されています。
また、医療もかなり発達して、昔は「死の病」と呼ばれていた病気も最近では薬が出来、治療方法も
向上されて治る病気となったものも多くあります。
さらに救急医療体制も確立され、電話一本で救急車が駆けつけてくれます。
そして病院まで遠いところでケガや病気になればドクターヘリが飛んで来てくれます。
これは言い換えますと、「人が、なかなか死なない世の中になった」とも言えるでしょう。
そんな「人が、なかなか死なない世の中」に生きていますと、当然明日も明後日も、来月も来年も
当たり前にやってくるという錯覚に陥り易いです。
しかしそんな保証はあるはずも無く、明日が迎えられずにこの世と縁が尽きる方も大勢おられるのも
事実です。
過去、数多くのご葬儀でのお勤めをさせて頂いてきましたが、「さっきまで元気だったのに突然…」
「朝起きたら隣で冷たくなっていた…」というお話もよく聞きます。
つまり、万人に等しく「明日は来る」は、無いのです。

私も昔から「明日は無いものとして今日を生きよ」と教えられ、それも理解して生きようとはして
いますが、その実、なかなか本当に「明日は来ない」をリアルにシミュレーションして今日を生きる
のはとても難しいです。
なぜなら、「人が、なかなか死なない世の中」に生きているからです。
おかげさまで私は日々忙しく過ごさせて頂いており、私のスケジュール帳は数カ月先までビッシリと
詰まって真っ黒になっています。
仕事をしている身としては、「明日が無いかもしれないから…」と予定を入れないわけにもいきま
せん。
なので、明日が来ないかもしれない、と考えながら明日以降の予定を入れるという矛盾したわが身
ですが、大切なことは「今日出来ることは今日中にやる。明日まで持ち越さない」という事と、
ひょっとしたら明日は動けなくなるかもしれない…と考えればその日の過ごし方やスケジュール、
諸々の段取りなどはより合理的且つ無駄なく計画してけるかと思います。
そして一番大切なのは、「今日を迎えられた事」を当たり前に思わず、感謝出来るか?ということ
ですね。
今日を迎えられたから、今日の予定をこなせるのです。
今日を生きられるから、今日もまた学べるのです。

本当に儚い人の命。
「人が、なかなか死なない」世の中ではありますが、でも結局、人は死にます。
しかし死んで終わりではなく、清らかで静かなお浄土に生まれさせて頂くという続きがあります。
だからこそ、今のうちに阿弥陀さまから信心を賜り、そして授かった名号・南無阿弥陀仏を申し
念仏者としての生き方を貫くことが、今、この命のある時にしておくべき事なのだと思います。
それを私たちにお伝え下さったのが、親鸞聖人。
その教えを受けられる事を素直に喜び、そして感謝します。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

合掌

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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