十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

浄土和讃「阿弥陀経和讃」
註釈版聖典 五七一頁

みなさん、こんにちは。
至上最速の梅雨明けから一点、戻り梅雨となり、そしてまた暑さが戻ってきました。
さらに、史上最多で新型コロナウィルスの新規感染者が爆発的に増えて来ています。
BA5という新しい変異株に置き換わり、猛威を振るっていますが、「重症化しにくい」とは報道で
言われています。
しかし、それは安心材料にはならず、感染すれば高熱も出ますし仕事にも行けません。
また家族や周りにも負担をかけてしまいます。
どうか引き続き徹底した感染対策をお願い致します。

さて、今月のご和讃は、阿弥陀経和讃と呼ばれるもので、仏説阿弥陀経の「かの仏の光明無量に
して、十方の国を照らすに障礙(しょうげ…妨げ)するところなし。ゆえに号して阿弥陀とす」
との文意から親鸞聖人はこのご和讃を作られたと言われています。
十方微塵世界とは、東西南北の四方に加えて、北東、南東、南西、北西を加えた八方。
さらに上下を加えた十方…つまりありとあらゆる方向を指します。
微塵は小さなものが数多くあることを指しますので、あらゆる世界のことを指しています。
そんなあらゆる、全ての世界にいる、阿弥陀さまのお救いを信じて念仏をする人々を照覧なさり
お救いの光の中に摂取しておさめ、決してお捨てにならず、必ず往生成仏させて下さる如来さま
故に、阿弥陀仏とお呼び申し上げるのである、という意味です。
今回は、その阿弥陀さまについてのお話です。

阿弥陀さまはもともと、はるか久遠の昔に仏となられていた古仏でありました。
これを久遠実成(くおんじつじょう)の古仏を言います。
しかし、迷い苦しみの世界で輪廻転生して生き続ける衆生をなんとか救いたい、と放っておけな
かんたんですね。
この衆生とは、三世十方の諸仏、つまりあらゆる一切の仏さまから捨てられた末代不善の凡夫で
あり、もっとわかりやすく言いますと、あらゆる煩悩を持った衆生の事を指しています。
あらゆる世界の仏さまが「救うこと難し」と捨てた衆生を、阿弥陀さまがただ一人「救いたい」
とお思いになられたのです。
そのために、仏であった身からわざわざ菩薩の位にまで降りて来て下さったのです。
その理由は、新たに修行をし、なんとか煩悩まみれの衆生を救いたかったから…
そして「法蔵菩薩」という菩薩になられて世自在王仏(せじざいおうぶつ)という仏さまの前で
修行をされました。
皆さんがよくお勤めされる「正信偈」の「法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所」のところです。
因位(いんに)とは因果の因の位、ということです。
因は事の起こり、原因を表しますので、物事が起因した時の位ですから因位です。
因位に対して、最後にどうなったか、という時の位が果位と言います。
話が逸れましたが、仏教に於いては衆生が仏と成るには苦行をし、戒律を守り、煩悩を離れて
悟りを得なければ仏とは成れない、とされてきました。
ですから、あらゆる煩悩まみれの衆生は、いくら仏さま方であっても救うことが出来ません。
にも関わらず、煩悩を持ったまま、如何に煩悩まみれの衆生を仏と仕上げて仏と成らしめるのか
を、私たちが想像もできない程の時間を掛けて考えて下さり、そして大変な苦行をされその成果を
全て衆生、つまり、わたしに全て振り向けて下さり、一切の衆生を救うという願いを成就され、
阿弥陀如来という仏さまに再び成られました。
これが果位ですね。

元々わたしは仏さまに成れる要素は一つも持ち合わせておりません。
そのために阿弥陀さまはこのわたし一人のために、信心を授けて下さいました。
そしてその信心によって出る「南無阿弥陀仏」のお念仏をお授け下さり、常に阿弥陀さまの呼び声
が聞こえるようにして下さいました。
そうです、「常に阿弥陀さまがご一緒です」と言われる由縁はここにあります。
そして阿弥陀さまと二人三脚で今の命を目一杯生き、そしていよいよこの世と縁が尽きる時、
阿弥陀さまはわたしの手を引いてお浄土へと連れて行って下さり、仏と成る要素を何一つ持ち合わ
せていなかった私を仏として下さるのです。
もう二度と迷いや苦しみの世界で生きることはないのです。

ですから、仏説阿弥陀経の中では「あらゆる世界の全ての仏さま方は、阿弥陀如来の建立した浄土
をこの上ない素晴らしい場所である、と褒めたたえている」との文言が出て来ます。
なぜなら、苦行もせず、煩悩も絶たず、悟りも得ないまま、阿弥陀さまの大きなお力によって、
そのままお浄土で衆生を仏と成らしめるからです。

阿弥陀さまの救いの光明は、私たち衆生に遥か昔から届いており、その光に照らされているのです。
太陽の光は影が出来ますが、阿弥陀さまの光は影が出来ません。
太陽の光は、塀や障害物があると遮られますが、阿弥陀さまの光は一切遮られることがありません。
それだけの光に包まれて生きるわたしがなぜそれに気付かないのか?
それは何でも当たり前に考え、自分本位に生き、そして阿弥陀さまに背を向けて生きてきたから
でありましょう。
わたしがどんなに背を向けていても、阿弥陀さまは決して見捨てることなく、ずーっと寄り添って
おられます。
それがわかれば、決して一人ではないこと、そして決して手を抜いて生きることなんてできないこと
がよくわかるかと思います。
阿弥陀さまはいつも隣にいて下さいます。
だからこそ、そんな阿弥陀さまに、自然と手を合わせ、お念仏し、頭を下げたくなりますね。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

合掌

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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