みなさん、こんにちは。
先月は「沖縄地方は梅雨入りですね…」というご挨拶から始まりましたが、、、、、
なんと、昨日、東海、関東、甲信越は梅雨明け宣言という、至上最速の梅雨明け!
でもこんなのはきっと異常気象の幕開けで、七月にはここかしこで大雨が降りそうですし、今回
の最短梅雨明けも、太平洋高気圧(小笠原暖気団)の強い発達によって梅雨前線を北へ押し上げ
たのが原因なので、今度は台風量産の危惧があります。
雨が降れば線状降水帯(レインバンド)によって、同じ場所に長時間滝のような大雨が降り続き
土砂崩れや河川の決壊も起こります。
また超大型の台風によって建物の崩壊やライフラインの寸断など、いずれにしても命に直接関わ
る事に直面しますので、どうかその際は早めに避難されて下さい。
防災、防災と言いますが、私は人間の力で自然災害なんて防げるわけがない、と考えています。
ですから、強いて言えば防災とはいち早く危険から逃げること!これしかありません。
普段から、「何を持って、どこへ、どうやって避難するか」をご家族できとんと話し合って
下さい。

さて、今回は浄土真宗の経典には出てこない言葉ですが、「おかげさま」について少し触れて
みたいと思います。
人と会った際の挨拶で、「あ!久しぶりだね。元気にしてた?」と言われて、おそらく殆どの人
が「こんにちは。おかげさまで元気にやってるよ」なんて返すんじゃないでしょうか?
このおかげさまですが、一体誰のおかげ?なのか、意外と知られず使われていると思います。
世間様のおかげ…お世話になっている方達のおかげ…まあそれもあるでしょう。
でも一番のおかげとは、神さま・仏さま、なんです。

私が浄土真宗における住職と成る際に必要な資格である「教師」という資格を取るべくその教修
を受けている時に、こんな会話がありました。
同じ教修生の方のお話でしたが、「私の家内は、夜寝る時に『おやすみ』とは言わずに、なぜか
『明日も会えるといいね』と言って眠り、朝起きたら『おはよう』とは言わずに『今日も会えて
良かったね』と言うんです」という、結構引き込まれる内容でした。
そしてその方はなぜそういう言い方をするのか奥さんに聞いたそうです。
すると奥さんは「おはよう、おやすみ、という言い方は、自分達は生きていて当たり前、という
考え方。私たち仏教徒は、自分は常に仏さまに生かされていることを感謝しながら、その命を
目一杯生き抜くことが仏さまへの報い。だからいつこの世と縁が尽きるのかわからないから、
『明日も会えるといいね』、『今日も会えて良かったね』なんじゃない?」と言われたそうです。
そのご主人は既に僧侶となっていて奥様はまだ得度もされていないのに、すごく大切なことを
教わった、と言われていました。

浄土真宗第八代門主の蓮如上人は、御文章という真宗門徒に宛てた手紙を残されています。
僧侶はこれを独特の節回しで読み、皆さんにお聞き頂くのをご存知の方も多いかと思います。
この御文章の中で「白骨章」という有名な御文があります。
ここで現代意訳にしてご紹介させて頂きます。

世間の浮々(うかうか)として定まりの無いありさまをよくよく考えてみますと、およそ何が
儚いかと言って、人間の生まれてから死ぬまでの間、幻のような人の一生ほど儚いものはあり
ません。
それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人が居たなどと聞いた事がないです。
人の一生は過ぎ去りやすいものです。
今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか…人の死とは私が先なのか、人が先なのか、
今日かもしれないし、明日かもしれない。
遅れて、或いは先立ってゆく人は草木の根元に雫(しずく)が滴(したた)るよりも、葉先の
露が散るよりも多いのです。

それゆえに、朝には血色の良い顔(紅顔)をしていても、夕べには白骨となる身なのです。
もはや無常(諸行無常)の風が吹いてしまえば、たちまち二つの眼を閉じ、一つの息が永く
絶えてしまえば、血色の良かった顔がむなしく変わってしまい、桃や李(すもも)のような
美しい姿を失ってしまえば、全ての親族、親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうすることも
できないのです。

(亡くなられた人を)そのままにはしておけないので、野辺に送り火葬し、夜更けの煙と
なってしまえば、ただ白骨が残るだけ。
哀れと言っただけでは、とても言い足りません。
このような世間の儚さは、老いた者が先だとか、若い者が後だとか決して定まっている
のではない境遇なのですから、誰もが後生の一大事、つまりお浄土に往けるのか、往けない
のかといったとても大事な事を心に留め、阿弥陀仏にたのみ申し上げて、念仏申すべきで
あるのです。

…といった内容です。
この御文章、私はご葬儀の時に弔問者の皆様に向けて拝読させて頂いています。
衝撃的なのは、朝には元気だったのに、夕方には白骨となる身である、というところでしょう。
「朝には紅顔ありて、夕ベには白骨となれる身なり」…でも実際にそうですね。
即日火葬して荼毘に付されるのはあまり聞きませんが、でも、お通夜、葬儀、その後火葬です。
あんなに美しかった姿が、目を閉じ息をしなくなると血色が無くなり、荼毘に付されれば、単に
白骨のみ残るだけ。
なんとも言えない無常観を表していますが、実際にそうでしょう。

このように、若いから死ぬのはまだ先、とか年老いたからすぐに死ぬ、といった事など全く決め
られてはおらず、老若男女いつ「その時」が来るのかはわかりません。
ですから、今日も生かされているから「おかげさま」。
明日も生きていられたら「おかげさま」。
神仏の庇護の下に生かされ、その大きくありがたい庇護の傘の陰に今日も生かされる私なのです
から「おかげさま」なのです。

「生きている」と考えるから「当たり前」ですが、「生かされている」と思えば自然と口に出る
「おかげさま」なのです。
常に阿弥陀さまの庇護の下に暮らして「おかげさま、おかげさま」。
そしてこの世と縁が尽きてしまったら、阿弥陀さまがお浄土に私を連れて行って下さるのですから
やはり「おかげさま、おかげさま」。

そう思うと、阿弥陀さまへのご恩には報いても報いきれないので、常に「南無阿弥陀仏」の
お念仏を申すのです。
これが「御恩報謝」の生き方なのです。

合掌

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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