(法句経 第一章 『ひとくみずつ』より)
【中村 元 訳】

皆さんこんにちは。
五月に入りました。
善教寺は今年度の春彼岸行事について、新型コロナウィルスの新規感染状況を見ながら、遅れて修行する
という選択肢がありましたが、感染者数は下げ止まりでなかなか止まらず、従ってやむを得ず今年度の春
彼岸行事は中止決定をしました。
宜しくご理解の程お願い致します。
その代わり、お盆のお参りにはぜひ皆様のお宅に参らせて頂きたいと思いますので、ご希望の方は、善教寺
までご連絡下さい。

さて、今月の伝道掲示ですが、法句経(ほっくぎょう)から頂きました。
浄土真宗での「お経」とは、浄土三部経と呼ばれる「仏説無量寿経」「仏説観無量寿経」「仏説阿弥陀経」
のみですが、この法句経は短い詩形式でのみ教えで、わかりやすく、真理を説いた言葉ですので、今回
あえて引用させて頂きました。

法句経は別名「ダンマパダ」と呼ばれ、釈尊(お釈迦さま)の人生訓を記したお経で、人間平等の人格主義
を貫く釈尊の思想を、詩句423編で謳いあげた真理の詩華集です。
今回頂きましたお言葉は、その中の第一章、一句目と二句目の詩句の冒頭の言葉です。

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う
…車を引く(牛)の足跡に車輪がついていくように

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくりだされる。
もしも清らかな心で話したり行ったりするならば、福楽はその人につき従う
…影がそのからだから離れないように

つまり、すべてのものごとは、その人の心によって、善くも悪くも成り立つ、ということなんですね。
何かズルいことを企んだり、人を傷つけようとする行いは、結局苦しみとなってその人に返ってくるし、
それは決して免れない。
また、見返りを求めず、世の為に人の為に尽くそうと善行をする人は、後々、福となってその人に返って
くるし、自分の体から影が離れないように、その善行の果は常に付いて回るんですね。
仏教では物事を因果と縁起で考えますが、まさに釈尊はこの法句経の一番最初に因果と縁起を衆生に説きた
かったのだと思います。

因果とは物事には原因となることがあって、その結果が必ず現れます。
しかしそこには縁という、いわばきっかけとなる事が必ず介在します。
わかりやすく申しますと、土の中に種が埋まっていたとします。
でもこの「因」である種は縁という何かのきっかけが無ければただの種で終わります。
雨が降ってその水が地中の種に行き届き、やがて芽を出します。
今度はその芽にも雨によって水が与えられ、燦々と輝く太陽からの光を受けて成長し、そして美しい花が
咲きます。
そうです、種は「因」であり雨水と太陽が「縁」、そして花が「果」なんですね。
今、自分の境遇を見てみますと、今まで自らがしてきたことの結果として現れているだけなのです。
もし望んでいた自分となっていたのなら、それは自らがそう望んでそうしてきたこと。
また、望んでない自分であっても、実はそれは自らがそう望んでそうしてきたこと、なんですね。
人に優しく接し、人の為に尽くし、人が喜ぶことをし続けてきたのなら、その人は必ず周りの人からも
好かれ、助けられ、周りの人達と仲良く楽しく過ごしているでしょう。
自分の事しか考えず、他人を蹴落としてでも自らの利を求める人には、誰も近付かないし、困った時でも
誰も助けてはくれません。

浄土真宗ではこの教えを「自利利他」と説きます。
つまり、「自らの利とは、他を利することに有り」なんですね。
天台宗では「忘己利他」と説くそうです。
これも同じで、「己を忘れて、他を利する」ということです。
忘己利他は「もうこりた」と読みますが、「もう懲りた」では無いですよ。

つまり、仏さまの教えとは「常に多を利する思想」が基本なんです。
阿弥陀さまは、もともと仏さまであったのに、この世で迷い、悩み、苦しみながら生きる衆生を救うために
わざわざ菩薩の位にまで降りて来て、「法蔵菩薩」と名乗って、長い長い修行をされ、そして煩悩多く悪業
にまみれる我ら衆生、生きとし生けるものすべてを如何に救うかという方法を私たち人間が理解不能なほど
の長い時間(数百億年)を掛けてお考え下さいました。
これが正信偈に出てくる「五劫思惟之摂受(ごこうしゆいししょうじゅ)」なんです。
一劫とは、天女が百年に一度天から降りてきて、その羽衣で大きな岩をひと撫でし、それが繰り返されて
とうとう岩がすり減って無くなるほどの時間…または43億2千万年とも言われる、長い長い時間(諸説有)
で、五劫とはその五倍の時間を言います。

なぜ能力のとても高い法蔵菩薩さまがそんなに長い時間掛かってしまったのかというと、それだけ我ら凡夫
の業が深いからなのです。
そしてお念仏申すことによって、この世と縁が尽きた時に、煩悩を抱えたままの私を仏として仕上げて下さ
り、そのままお浄土に生まれるよう、長い長い大変なご修行の功徳の全てを私に振り向けて下さったのです。
そんな究極の救済手段を成就され、法蔵菩薩さまは阿弥陀如来さまとなられたのです。
これこそが最大の「利他」ではないでしょうか?

お浄土にて生まれた(往生した)私は、今度は仏さまとしてこの世に戻り、衆生を救う重要な任務を任され
ます…ただお浄土にて寝転がっているわけではないのです。
なぜなら、阿弥陀さまによる究極最大のお慈悲である「利他」によって救われたのですから、今度は自らも
利他のために、悩み苦しみ、そして輪廻転生を繰り返す衆生を救うのです。

そんな身になる私なのですから、生きている現世から、利他の精神、思想を忘れてはならない、という、
お釈迦さまからの、遠い昔からのメッセージがいままさに、私たちに至り届きました。
ありがたいことでございます。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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