仏説無量寿経 巻上 正宗分 法蔵修行
(註釈版聖典 二十六頁)

皆さん、こんにちは。
あっという間の十二月です。
この一年、皆様にとってどのような年だったでしょうか。
実にいろいろな事が起こりました。
相変わらずコロナに振り回されっぱなしでしたし、この影響で生活や仕事、はたまた
人間関係にまでいろんな弊害が及んでいることかと思います。
ロシアのウクライナ侵攻はまだ続いており、たくさんの犠牲者が出ています。
また、安倍晋三元首相射殺事件から飛び火して、とあるカルト教団の問題が浮上して
それに政治も巻き込まれて、なんだか心の落ち着かない年でもありました。

私は、いよいよ善教寺の再建事業が来年から始まる事から、お寺の設計デザインを検討
したり、その為の熊本での仮住まいを探したりと忙しくしておりました。
また、熊本でもヘリコプターのご縁が出来、熊本空港でフライトする機会も頂き、今で
は名古屋と熊本両方でフライトをしております。

さて、今月のお言葉ですが、浄土真宗の根本聖典である仏説無量寿経(大経)に書かれ
ている「先意承問」という教えです。
これは「せんいじょうもん」と読みます。
実はこの「先意承問」の前に「和顔愛語(わげんあいご)」という言葉があります。
和顔愛語とは、読んで字の如く【和やかな顔と優しい言葉】という意味ですね。
そして先意承問ですが、【意(こころ)先にして承問(じょうもん)す】と読みます。
その意味は、「先んじて相手の心を汲み、何が出来るかを自問して何をしてあげられる
かを考え、相手に手を差し伸べる」という事です。

最近、本山・本願寺(西本願寺)の入り口に「和顔愛語」と大きく書かれた立札が立て
られ、その影響かあちこちで「和顔愛語」という言葉を目にします。
確かに「和顔愛語」という言葉は素敵ですが、どちらかと言うと私は次に続くことば
「先意承問」の方がもっと大切なのでは?と思っています。

遥か久遠の昔、阿弥陀さまは仏さまであったのですが、この迷いの世界で苦しみながら
生きる私たち衆生を憐れんで、「よし!私が生きとし生けるもの全てを救う!」と
一念発起され、仏の位から菩薩の位まで降りて来られ、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)
と名乗られ、衆生を救うために修行をされました。
生きとし生けるもの全てを救うわけですから、大変な修行です。
その修行中の法蔵菩薩の様子が「和顔愛語にして意(こころ)先にして承問す」と経典
に書かれているのです。

やがて法蔵菩薩は衆生救済の道を成就され、再び阿弥陀如来さまに成られたのですが、
ここで大切なのは「相手の心を汲み、何をしてあげられるかを考え、そして手を差し
伸べる」という考え方なんです。
今の世の中、まず最初に自分の事を考えます。
そういう教育の中で育ってきたからです。
人は人、自分は自分。
そんな思考が、段々人を思い遣る事を忘れ、まず自分ファーストになり、だんだん競争
が始まって行くんです。
一体私たちは何を競って生きているのでしょう?
勝ち負けにこだわるのは勝手ですが、永遠に勝ち続けることなんて不可能です。
諸行無常の世界ですから。

自利利他という言葉がありますが、阿弥陀さまは私たちという衆生を救わんがために
長く大変な修行をされ、私たちの為にお浄土を建立され、この世と縁が尽きた際には
お浄土に必ず生まれるよう「南無阿弥陀仏」の名号を私たちに与えて下さいました。
つまり自らの利とは、他を利する事という大切な教えを私たちにお示し下さいました。
先意承問とはまさに自利利他の教えであり、それを和やかな顔と言葉で相手に接して
手を差し伸べる、相手の為に骨を折る事も惜しまない、ということなんです。

和顔愛語にして、意先にして承問す…この教えを大切にしていれば、争いや揉め事、
そして受けなくて良いストレスすら回避でき、毎日を穏やかに、有意義に生きられる
はずなんです。

遥か昔からこんな素晴らしい教えがあるのに、人間は未だに自己中心的で、常に誰かと
いがみ合い、国同士戦争をし、命や財産を奪い合っています。
そんな愚かな人間をご覧になり、「そんな世界から解脱させ、救うんだ!」と願われた
阿弥陀さまは、究極のお慈悲の仏さまですね。
手を合さずにはいられません。
そして私たち人間は、如何に業が深いのか、をも知らされる事実であります。
たった今から、和顔愛語 先意承問 の生き方をしてみませんか?
自分が変われば必ず周りも変わります。
そしてこれこそが、成りたかった自分、なのではないでしょうか?

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

合掌

善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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