皆さん、こんにちは。
今年もあと2ケ月となりました。
来月12月はいろんなことで忙しくなりますから、この11月に出来るだけのことを片付け
ておきたいですね。
ところで、今年の夏も暑かったですよね。
いや、暑いを越えて熱いくらいでした。
夏は暑いのが当たり前ですがこれまで暑いと、どうしても涼しい季節を人は求めます。
最近は気象変動もあって、夏と冬の間である春と秋の気配がとても薄いです。
今年もそうで、そろそろ涼しくなって来たな…と思った途端、いっきに冬レベルの寒さ
にまで気温が下がりました。
少しこの前まで「暑い暑い」と言っていたのに、すぐに「寒い寒い」と不平を漏らす私
がいます。
やがて冬が到来し、「寒い寒い」と言いながら暖かい季節を求めますが、気温が上がる
と、また「暑い暑い」と言います。
暑いから「暑い」と言い、寒いから「寒い」と言うのは人として当たり前なことですが
だからといって常に今無いものを求めるのは一つの煩悩だと思います。
また今の世の中、大変便利な世界になりました。
特にITテクノロジーの発展は目覚ましく、携帯電話やSNSなど、コミュニケーションに
関わるツール、手段が格段に発展しました。
今や、世界中の人達とリアルタイムでコミュニケーションを取る事が出来、昭和の時代
から考えると、夢のような世界なのかもしれません。
しかし反面、携帯電話を持つようになってからは常に電話に追われる生活になっている
方も多いのではないでしょうか?
また電子メールやSNSでも、朝起きたらドッサリ届いていて、この返信に追われ、逆に
忙しくなっているのは皮肉なものです。
人は無い物を求めます。
これは悪いことではないです。
しかし、「今」という現状を受け入れずに無い物を求めるのは不幸だと思います。
便利な物、便利さに囲まれたおかげで、確かにある面、楽にはなりましたが、またその
反面、心の余裕が失われているのではないでしょうか?
また私の持論なのですが、「便利さは、人の能力を奪う」ということもあります。
便利な物を持つおかげで、頭で考えなくても良かったり、また便利な物が全てやってく
れますので、その技術や知識も持ちません。
炊飯ジャーがないとお米を炊けない、洗濯機が無いと洗濯すらできない、という人、
以外に多いのではないでしょうか…?
浄土真宗の根本聖典である「仏説無量寿経(大経)の下巻」にはこのように書かれてい
ます。(現代語訳)
「世間の人々はまことに浅はかであって、みな急がなくてもよいことを争いあっており
この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによってやっと生計を立てているに過ぎ
ない。
身分の高い者も低い者も、貧しい者も富める者も、老若男女を問わず、みな金銭のこと
で悩んでいる。
それがあろうがなかろうが、憂え悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ
後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて少しも安らかな時が
ないのである…中略…
欲望にまかせた生活も、またどのような栄華も、いつまでも続くものではなく、すべて
失われてしまう」
2500年前から、お釈迦様はこのような人の有り様を冷静に見、そして哀れんでおられ
ました。
また言い換えれば、私たち人間は2500年前から、いや遥かもっと前から何も進歩して
いないとも言えます。
単に着ている物と食べるものが変わっただけですね。
そして、あまたの便利さに囲まれながらもそれらに追われてあくせく生きている…
そんな命を輪廻して永遠に繰り返す私たちをそのサイクルから救い解脱させたい、と
願っておられるのが阿弥陀さまです。
長いようで短いのが人の一生…まさに夢、まぼろしのごとくなり、なんですね。
そこに執着するからいろいろなことが苦になってくる。
もちろん、一生懸命生きることには手を抜けないですが、執着しても意味のないことに
執着して、結果自分で自分を苦しめているのが我ら凡夫なのでしょう。
ですから、宗祖親鸞聖人はこの短い、まさに瞬間のような人の一生の中で、阿弥陀さま
の救いに出合い、そして「我、能(よ)く汝を救う」という大いなる願いの中でお浄土
に生まれさせて頂くためのお念仏を賜ったことに、心からの歓びを感じておられた、
まさに「本願に帰す」生涯であったということがわかります。
つまらないことに執着し、そしてそれに振り回されるような哀れな人生にしないため
にも、まず「自分モノサシ」を捨て、身の回りに起こる事を受け入れ、自分のためだと
感謝する毎日こそが本当の幸せであって、幸せを追い求めてあくせくすることが、不幸
の始まりなのだと、私は思います。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
合掌
善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)