皆さん、こんにちは。
早いものでもう10月です。言い換えれば今年もあと3ヶ月で終わりますね。
新型コロナもそうですが、ウクライナ情勢や安倍元首相銃撃事件というショッキング
な出来事がありました。
またこの襲撃事件から某宗教団体の霊感商法問題、過度な献金問題が浮き彫りになり、
加えてこの団体と政治の世界の根の深い関わりなど、いろいろ考えさせられることが
多くありました。
そして、数々の感動を産んだ2020東京オリンピック組織委員会役員とスポンサー企業
による贈収賄問題など、きっと仏さまの視点でみると、「なんと哀れな衆生…」と
嘆いておられるかもしれません。
これらの事件、出来事を見てみますと、それを引き起こした中心人物に、良い悪いは別
としてそれぞれ大義名分があるようです。
その大義名分は人の命や財産を奪ったり、「必要悪」と勝手に決め込んで悪いことと
知りながら平気で人道的に外れた方向に進ませる恐ろしいものです。
私は最近のご法話にて「頑張っている人間が、実は一番危うい」といったお話をさせて
頂いています。
なぜなら、頑張っている人は正しいと決めた事にしか目と意識が向かず、周りを見失い
やすいからです。
そして「自分は頑張っているんだ」という自覚のある人は、「この人は頑張っていない」
と決めつけてしまった人に対して全く寛容さを失ってしまいます。
「名選手、名監督にあらず」とよく言われるのもこれが一つの原因です。
さらに「自分は世のため人のために頑張っている」という自覚を持っている人は、実は
他人に厳しく自分に甘いことが多く、
「自分は人のために頑張っている…だから、これくらいは許されるだろう…」と勝手に
都合よくルールを歪めてしまうんですね。
ですから「あんな立派な人が?」、「あんな立場の人が?」という人が「まさか!」
という事件を起こします。
でも当の本人は悪気なく大きな罪を犯してしまうんです。
なにせ「これくらい、いいだろう?」と思っちゃっていますから。
「これくらい」と「人の道」を天秤に掛けてその罪が軽くなる錯覚を起こしています
から、罪に問われ逮捕されるくらいの大罪も、タバコのポイ捨てくらいの感覚なんで
しょうね。
で、本当に逮捕されて自分の犯した罪の重さに気付いても、既にもう遅いです。
私たちは一人で生まれてきます…まあ、中には双子、三つ子として生まれて来られる方
もおられますが、
「わたし」という存在は一人のみですから、やはり一人なんです。
そしてこの世と縁が尽きて死ぬ時も、もちろん一人で死んでいきます。
誰も代わることはできません。
でも一人で生きるには難しい世の中ですし、人は多くの人と関わり合ってこそ学び成長
していくものです。
また「世間」というコミュニティーで生きるには、様々なルールと向き合いそれを
守っていかないといけません。
それらは自分にとって正しいとか正しく無いとかは、関係ないです。
仏教とは仏の教え、と書きますが、何の教えかと言いますと、世の中を正しく生きる
だとか人に迷惑を掛けないだとか枝葉末節な羅列ではなく、大きな柱は「仏に成る教え」
なんですね。
自らが仏に成るにはその為の修行をし、煩悩から離れて悟りを得ることが必須と言われ
ますが、私たち衆生は愚かな凡夫(ぼんぶ)ですので、修行もできないし、当然悟りを
得ることも出来ず、むしろ快楽や富を求め戒律を無視して生き続けます。
そのために六道といわれる地獄道、餓鬼道、畜生道、人間道、修羅道、天道をずーっと
輪廻してこれら迷い苦しむ世界を生き続けます。
そんなことを繰り返しているのですから、多くの仏さま方から「救うこと難し」と見捨
てられた身なんですよね。
でも、たった一人、「私はこの衆生を必ず救いたい」と願われて衆生救済の道を成就
して下さったのが、阿弥陀さまです。
六道という迷い苦しみの世界での輪廻(ループ)から一人残らず救いたいと四十八の
誓願(本願)を立てられ、これを成就して下さいました。
そして私たち衆生に寄り添い、尽きることなく救いの光で照らして下さる。
「この迷い苦しみの世での命終えた時、どうか私のお浄土に生まれておくれ。あなたは
独りぼっちなんかじゃない。ずーっとお念仏となって、あなたに寄り添っているんだよ。
あなたがお念仏する時、私もあなたに呼びかけているんだよ」と、私は決して孤独では
ない、独りぼっちじゃないんだ、ということを教えて下さいます。
自分が頑張っていようが、人の為に努力していようが、はたまた、怠けて生きていよう
が、結局人は独りで生まれ、そして独りで死んでゆく。
独り去り、独りでまた六道のどこかに来たるという命を繰り返す。
さらに、それは誰も代わることはできません。
そんな儚い命を生きる中で、如何に仏さまの願い、教えに沿って生きていくかはとても
重いことだと思います。
法律とは、人が何かしらの都合で作ったルールです。
だから万能ではなく、公平でもありません。
仏法とは、仏さまがわたしを救って下さる絶対的な法であり力であり、はかりしれない
慈しみです。
万能で公平、そして不可称、不可説、不可思議という、我ら凡夫には称え、称することも
説明することも、思い考えることも全くできない大きな大きな力なんです。
そのありがたいお救い、お法り、み教えに出会えたことが、まさしく奇跡ですね。
独りきりじゃない、独りぼっちでもない。
常に阿弥陀さまがご一緒の、わたしの人生の歩みなのです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
合掌
善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)