明けましておめでとうございます。
皆様におかれましては、慈光照護のもと清々しく新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
昨年末より新種の「オミクロン株」というウィルス感染が取り沙汰されていますが、今年こそ
新型コロナウィルスに打ち勝って、希望ある一年となりますことを心から願います。
さて、今月頂きましたお言葉は、大乗経典・涅槃経にて説かれていますお釈迦様のお言葉です。
浄土真宗において、経典とは・仏説無量寿経・仏説観無量寿経・仏説阿弥陀経の三つを指し、
これらの経典を浄土三部経として定めていますので、この涅槃経のお勤めや内容についての教え
はないのですが、実はとても重要なことを説かれていますので、今月はこのお言葉を頂きました。
このご文は法四依(ほうしえ)と呼ばれる四つの法義です。
「義に依りて語に依らざれ」…意味を拠りどころとして、言葉を拠りどころとしない。
「智に依りて識に依らざれ」…智慧を拠りどころとして、知識を拠りどころとしない。
「了義経に依りて不了義経に依らざれ」…仏の教えである経典を拠りどころとして、意味の
はっきりしない教説を拠りどころにしない。
「法に依りて人に依らざれ」…仏法を拠りどころとして、人間の見解を拠りどころとしない。
という意味です。
お釈迦さまは多くの教えを説かれ、80歳でその生涯を終えられました。
その後、お釈迦さまの弟子たちが集まり、師であるお釈迦さまの教えをまとめる編集会議が始まり
ました。
これを「結集(けつじゅう)」と言います。
この結集は今日に至るまで何度か開かれていますが、おそらくいろんな意見や異論が出て、まさに
喧々諤々だったと思います。
特にお釈迦さま入滅100年後に行われた「第二結集」では戒律について異論が出て、根本分裂と
いう分裂がおこりました。
これによって、インドから北回りで中国、日本へと伝わった北伝仏教(大乗仏教)と、南回りで
タイやスリランカへと伝わった南伝仏教(小乗仏教、上座仏教)とに分かれてしまいました。
ちなみに大乗仏教という名前は、北伝仏教の教えが、仏弟子である僧侶だけでなく、一般の衆生も
救済されるという教えから、大きな船に多くの人々が乗せられて救われていくことを例えて、大乗
と言われるようになりました。
この北伝の大乗に対して、南伝は小乗と言われるのですが、別に小さいわけではありません。
南伝仏教は仏弟子である僧侶が出家し苦行をして救われるという厳しい仏教です。
ですから、大乗は船に乗せてあの世に渡る、小乗は自力で泳いであの世に渡る、と説明されること
もあります。
さらに、南伝仏教が上座(じょうざ)仏教と言われる理由ですが、根本分裂するに至った原因に
よります。
第二結集で、戒律の解釈を確認していたのですが、その中で「托鉢の際に、食べ物以外にお金を
もらって良いかどうか?」で意見が分かれました。
多くの僧侶は「そのお金は食べ物に変えられるし、また寺院の修理なども行える」と、合理性が
あることから賛成したのですが、一部の長老達が反対し、大揉めとなり分裂に至ったそうです。
そして合理性を良しとした人達が北伝、反対した人達が南伝へと分かれたのです。
この時の反対した長老たちは結集の際に上座に座っていたので、「上座仏教」と言わるように
なりました。
前置きが長くなりましたが、お釈迦さまには多くのお弟子さま達がいましたが、お釈迦さま=釈尊
の教えがそのまま全員の人に正しい解釈として伝わっていたのでしょうか?
その結果、釈尊なら、なんと言うか?の考え方の違いがこの分裂の原因だったと思います。
十人十色という言葉がありますが、人は常に同じ考えを持っているとは限りません。
同じ物を十人が見てもその感じ方、考え方は十通りです。
対機説法(たいきせっぽう)という言葉を聞いたことがありますか?
これは釈尊が人に教えを説くとき、その人に応じた教え方、説き方をされていました。
例えとして、患者さんによって医者が与える薬は違ってきますので、「応病与薬」とも言われて
います。
また、あえて違う言葉や意味、比喩などを用いて説くことをもありました。
これを「方便」と言います。(実は「方便」も仏教用語)
その時釈尊から出された言葉、説明の仕方、比喩の真意は、おそらく釈尊しかわからないと思います。
ですから、物事を伝えるというのは本当に難しいんですね。
ご存知の方も多いかと思いますが、私は僧侶の仕事の他にもヘリコプター操縦の飛行教官をして
います。
そして、日々「伝えることの難しさ」と戦っています。
言葉に出し、絵にも描き、現物を見せて、そしてやって見せても、全然違う捉え方をされてしまい
ます。
教官職を始めてはや22年になりますが、未だにこの難しさに直面し自らの未熟さを実感しています。
また、私は本願寺派布教使の末席の者ですが、日々のご法話でも、言葉の一つ一つにとても気を
使っています。
なぜならご法話は、仏法やご法義を皆様に正しくお伝えすること、お聞き頂いて、生きる歓びや、
生かされている感謝を感じて頂き、考え方や行動が変わっていかれることを目的としているから
です。
なので、ご法話を通して皆様に仏法、ご法義を取り次ぐ役割ですので、ご法話をさせて頂くことを
「お取り次ぎ」という言い方をします。
阿弥陀さまのお救い、そしてお釈迦さまから多くの仏弟子の方達が命を懸けて伝えて来られた大切な
み教えを、私ごときが勝手に解釈してお伝えしてはならないのです。
この毎月のご法話も、引用したみ教えの出拠として「註釈版聖典○○○頁」と必ず表記するのは
その為なんです。
人は何かを聞いたりすると、理解し易かったり、耳触りの良いことなどはそのまま素直に聞き入れ
ますし、そうでない事は無理やり自分の耳の形に変形させたり、はたまた耳に入れることすらしない
ということをする、不思議であり、またやっかいなことをしてしまう生き物です。
また、好きな人のことはそのまま素直に信じてしまうのに、そうでない人のことは完全にシャッターを
下ろしてしまいますよね?
そして根拠不明の噂話をあちこちに広げる一端をも担ったりします。
なぜそんなことをしてしまうのかというと、私たち人間は智慧が無いからだと言われます。
(仏教では知恵とは書かず智慧と書きます)
つまり感情によって自分のモノサシが長くも短くもなったり、そもそも、そのモノサシの目盛すら
正しいかどうかもわかりません。
親鸞聖人の教えも実はそうでした。
聖人のありがたいみ教えも、たくさん誤解を受けたり曲解されたりしており、実の息子である善鸞
(ぜんらん)ですら、暴走して間違った教えを広めて多くの弟子や門徒衆を混乱させたため親鸞聖人
は息子・善鸞を縁切りしています。
そんな折、親鸞聖人のお弟子さまであった、常陸の国(現在の茨城県)の惟円房(ゆいえんぼう)と
いう方が茨城県から京都の親鸞聖人を訪ね、様々なことを確認した上で、「歎異抄」(たんにしょう)
という書を綴られました。
まさに、「異なるを歎(なげ)き、したためた書」で、間違った解釈をそれぞれ正しています。
歎異抄の内容はまた別の機会にてご紹介させて頂きますが、どの時代であれ、どのような方であれ、
伝えることの難しさに悩まれていたのだと拝察します。
言葉とは便利なようで、とても不便ですね。
なぜなら、違った意味で伝わるという危うさをも持っているからです。
でも今年、とてもありがたい教えを授かりました。
私は毎月、世界的に有名なクレー射撃のコーチに指導を受けさせて頂いています。
テッド鈴木先生という方で、もう70歳を過ぎていますが、射撃もそうですが、言葉や表現を巧みに
使われます。
その中で衝撃を受けたのは、「言われた言葉は、そのまま受け取って下さい。わからなくてもそのまま
受け取って下さい。決して勝手に頭の中で変換しないで下さい」という教えでした。
それを聞いたとき、「わからないことをどうやって受け取ればよいのだろう???」と全く理解でき
ませんでした。
理解できないまま撃っていますから、的=お皿に当たるわけがありません。
外れの連続で、時間と弾の無駄遣い…と思いもしましたが、それでもひたすら言われたことをわから
ないまま続け、レッスンは終了。
もやもやとしたまま一週間が経ち、今度は自主練習で一人で撃ちに行きました。
すると面白いくらいポンポン当たります…引き金を引いた瞬間「これ、当たり!」とわかります。
スコアボードには「当たり」マークが連続して並びますから、他の人達も寄って来て、私の射撃に
注目してます。
そんな時に、「あっ!これか!テッド先生はこれを言いたかったんだ!」と頭の中で引っ掛かっていた
先生の教えが、スーッと心の中に染み込んで行く瞬間がわかりました。
レッスンの時に「オールハズレ」でも何も言われなかったのは、自分では全く気付かない悪いフォーム
やタイミングなど細々したことを修正する作業だったからです。
ひたすらハズレの射撃をすることによって、細かな悪い部分が気付かずに修正されていったんです。
それらを一つ一つの言葉で表して、コンマ何秒やコンマ何度の修正なんて人間が意識して出来るわけ
ありません。
以後、ヘリコプターの操縦訓練にこの教えを活かさせて頂いています。
大切なのは、素直に聞くこと…言い方や誰が言ったか、ではなく、何を言ったか?を素直に受け取る。
そして受け取ったものを、そのまま置いておく…無理やり咀嚼しようとすると、間違って変換して
しまいます。
そして、なぜ言われたのか?を考える…言われるのは良いも悪いも何かしらの理由があります。
それを受け入れないのは、自分の中に余分なこだわりがあるからです。
自らの知識や経験、価値観にこだわるから、それに外れることは否定となってしまいます。
正しいと思っていたことが実は正しくないことだってあります。
そう考えることが、今年は過去に無いくらい生きやすくなっていく大きなヒントなのだと、私はそう
思います。
お釈迦さまから頂いた、智慧への第一歩なのだと。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺住職・本願寺派布教使
釋 一心(西守 騎世将)