弥陀の五劫思惟の願を
よくよく案ずれば
ひとへに親鸞一人がためなりけり
さればそれほどの業を持ちける
身にてありけるを
助けんとおぼしめしたちける
本願のかたじけなさよ


…歎異抄
(註釈版聖典八五三頁))

皆さまこんにちは。
毎月毎月新型コロナウィルスの話題から入るのが通例になってしまっていますが、いかが
お過ごしでしょうか。
全国的に感染者数がグッと減ってきた折、様々な規制が緩和され、あちこちで人手が増えて
きました。
でも、コロナウィルスは消えてはいません。
むしろ、次の攻撃の機会をじっと待っているようで不気味でもあります。
変わらず、感染症対策は徹底されますようお願い致します。

さて、皆さん占いはお好きでしょうか?
好きではないけど、気にはなる…という方も多いことと思います。
また、「六曜」と言って、大安や仏滅、先勝、先負、赤口、友引のお日柄を気にされる方も
多いことでしょう。
そんな中で、運の良し悪しについて今月は考えてみたいと思います。

「今日、上司に叱責されてしまった。運が悪かったな…」とか、「今日、憧れの○○さんに
挨拶してもらった!ラッキー!」…なんてこと、日常でよくありますよね。
「運」…なぜこういった出来事のきっかけの事を「運」と言うのかを考えてみますと、私なりの
考えなのですが、それは、自分が今迄してきた物事の運び方、つまり自身を今日までどうやって
運んできたのか?という事なのだと思います。
人に優しく笑顔で接して来たのなら、当然周りからの評価も上がり、信頼もされるかと思います
ので、周囲から助けられたり、またミスをしたとしても、「そんなこともあるよ」のひと言で
済むことでしょう。
また逆に、常に自己中心的で、人には辛く当たり、反面自分には甘いという人は周りからの評価
は言うまでも無く、さらにいざという時に誰からも助けてもらえない。
そう考えると、運が良かった、悪かった、とは、そのまま自身の行いの運びの良さ、悪さなの
だと思います。
だからこそ、運の良し悪しは決して偶然なのではなく、必然であり、当然の結果なのだと思い
ます。

仏教ではこれを因果と縁起で考えます。
因とはわかりやすく言いますと、植物の種、そして果とは花です。
でも、種があるからそのまま花が咲くとは限りませんね。
そこには水であったり、陽の光といった縁があってこそ、果へと結びつくのです。
つまり、「わたし」という因は、ご縁という様々なきっかけによって今の果となっているわけ
です。
これが、因果と縁起という考え方です。

でも、そうわかっていながらも私たち人間は、望まない結果が起これば単に偶発的なことに
よってその結果が起こったのだと、自分のしてきたことを棚に上げて、常に自分以外のせいで
そうなってしまった、と考えてしまう生き物です。
病気になったのもひとえに家系の遺伝のせい。
試験に合格しなかったのも、先生がちゃんと教えてくれなかったせい。
自分の生活が苦しいのも、政治家と役所のせい。
そう考えれば気持ちは楽になるのかもしれませんが、何の解決にも向かいませんね。
なんて自分勝手で都合の良い生き方をしているのか…と反省しきりです。

親鸞聖人も実は常にそうお考えになっていたそうです。
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」…
阿弥陀さまは私たち衆生を救うために、とてつもなく長い長い間、その手立てをお考えになって
下さいました。
そんなに長い長い間お時間が掛かったのは、それだけ「わたし」の業が深いからです。
阿弥陀さまは、「十方衆生を救う」と万人に呼び掛けられていますが、その呼び掛けを聞き受け
るのは、一人ひとりの「わたし」なのです。
ですから、親鸞聖人は「阿弥陀さまのお救いの願いをよくよく考えてみると、この親鸞一人の
ためであったのでした」と心から感動されていたのでした。。

さらに親鸞聖人は「されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、助けんとおぼしめし
たちける本願のかたじけなさよ」と続けられています。
身勝手で業の深いこの身なのに、それでも助けようとして下さる阿弥陀さまの願いの、なんと
もったいなくも、ありがたいことでしょうか、と言われています。

阿弥陀如来さまは、智慧を持たず、自らのせいで悩み苦しみながら生きる私たちを、放っては
おけなかったのです。
「苦ばかりの、辛い人生を必死に生き抜いたのなら、やがてこの世と縁が尽きた時、必ず救って
浄土に迎えたい。素晴らしい世界で仏となって、自由自在に俗世の苦しむ人たちを救う身と
なってほしい。だから、どうかお浄土に生まれておくれ。もう苦しむ事の無い世界に来ておくれ」
と阿弥陀さまは常にわたしに呼び掛けて下さっています。
そのお声こそが「南無阿弥陀仏」のお念仏なのです。
お念仏申し、聞こえる声は我が声なれど、等しく阿弥陀さまからの喚び声なり。
なまんだぶ、なんまんだぶと聞こえる声は、すなわち、我にまかせよそのまま救う、の弥陀の声
なり…なのです。

阿弥陀さまは、長い間のご修行の功徳を「南無阿弥陀仏」のお念仏に全て込められ、私たちに
回し施して下さっています。
小さな声でお念仏しても、阿弥陀さまのお声は小さくしか聞こえません。
今、しっかりと大きな声でお念仏申せば、そのまま今、しっかりと阿弥陀さまの救いの光に
包まれていることを実感できるのです。
全ては、阿弥陀さまのおはからい、おはたらきなのでした。

阿弥陀さまは「わたしひとり」をお救い頂くために、私が願う前から、「お浄土に生まれておくれ」
と願って下さり、常に先回りをして我が身を照らして下さっています。
でもそれに気付かないわたし。
聖人の仰せの通りそれはそれは、かたじけないことです。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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