十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

浄土和讃
(註釈版聖典 五七一頁)

皆さまこんにちは。
相変わらず残暑が厳しい日が続いていますが、お変わりないでしょうか。。
デルタ株が猛威をふるい、感染者数が今までに無い増加数です。
どうせこの世と縁が尽きる身の私たちではありますが、やはり予防は徹底していきたいですね。

ここ最近、葬儀が続きました。
先日は、女性の方がお亡くなりになりました。
夜中に突然頭痛を訴え、すぐに救急搬送されましたが、病院に着いてまもなく往生されました。
突然の死にご家族はとても悲しまれ、ご主人も娘さんも火葬場までずっと号泣されていて、
私もその悲しさを大きく感じました。
こんな時、ご遺族にどんなご法話をさせて頂くか、とても悩みます。
悲しみの底にある方達を言葉だけで励ましても何の解決にもなりません。
ですから私は、「生死」についてお話させて頂きました。
この世で私たちは「生死」を「せいし」と読みますが、仏教ではこれを「しょうじ」と読みます。
実は「せいし」と「しょうじ」では全く意味合いが異なるのです。
「生死(せいし)」と読むのは、生きている事と死ぬことを完全に分けた考え方で、生と死を完全
に対立させた考え方です。
生きている事が最高であり、逆に死んだら終わり、敗北、最悪、といった考えですね。
ですから、不老不死などというものに憧れが出てくるのだと思います。
しかし、仏教の「生死(しょうじ)」とは、この世と縁が尽きた時、私たちは阿弥陀さまの本願の
力によってお浄土に生まれ、仏となってそこでまた新たな「いのち」をおくるのです。
ですからお浄土に往って生まれるので「往生」であり、仏さまと成る事ができるので「成仏」なの
です。
つまりは、お浄土でまたすぐにご故人さまにお会いする事が出来るのです。
これを「倶会一処(くえいっしょ)」と言います。
この世での「死」とは、実は「生きること」、お浄土に生まれて仏と成り生きることです。
ですから「生死(しょうじ)」なのです。
今はとても辛く悲しいと思います。
でも、やがてすぐに会える…そんな世界が阿弥陀さまが私たち衆生のためにご用意して下さった
お浄土です。

十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる

阿弥陀さまは、お念仏申しながらも、苦悩しながら生きる全ての衆生をご覧になり、
われにまかせよ、必ず救う、必ず浄土につれてゆくぞ、と願われ、そしてその願いを成就して
下さり、私たちを救いの光にて常に包んで下さっています。
ですから、私たちはその救いの手から決して放されることはないのです。
それが「摂取してすてざれば」なのです。
私たちを救い、決して放すことの無い大いなるお慈悲のお心…それが故に阿弥陀さまという名たる
所以なのです。

いつこの世と縁が尽きるかわからないこの身です。
今日かもしれない。
明日かもしれない。
そんな時が私たちには例外なく必ずやってきます。
「その時」に慌てて救いを求めなくても、私たちは既に救われた身ですから、安心して阿弥陀さま
に全てをお任せすればいい。
それが故に「南無阿弥陀仏」なのです。

私たち人間にとって最も大切な「後生の一大事」は既に阿弥陀さまによって確定されている、
本当にありがたい身であるのに、今日も目先の
長い、短い
多い、少ない
高い、低い
広い、狭い
といった些末な事で苦悩している、凡夫たるわが身。
だからこそ阿弥陀様は、そんな我らを救わずにはいられなかったのでしょう。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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