御文章(五帖第十六通 白骨章)
(註釈版聖典 一二〇三頁)

皆さまこんにちは。
あっという間の7月です。

この年もすでに半分を過ぎましたね。
そして、2020 TOKYOオリンピックが始まる(であろう)月にも入りました。
この原稿を作っている今でもまだオリンピック開催には疑問の声もありますし、
宮内庁長官が「天皇陛下も心配されている、と拝察する」との異例のコメントを発表しました。

なぜか「意地に、強引に」開催しようとしているように思えるのは私だけではないと思います。
そこへ、新たな、且つ強力な変異株がどんどん出てきます。
これら変異株はイギリスやインドで発生しそのまま日本に入ってきて猛威をふるっています。
つまりいずれも、もともと日本には無かったはずのものです。
でもなぜか知らない間に日本国内でどんどん感染していっています。

…水際対策、どうなっているのでしょう?と素朴に思いますし、「そんなザルみたいな検疫で、
いったいどうやって安全安心な開催が出来るのか」と、まったくもって不明でこの先日本は
どうなるのか、本当に安全安心なのかと不安を抱えている方も多いのではないでしょうか。

 

私はこの世には安全安心なるものは、「無い!」と常々断言しています。
なぜなら私たちが生きているこの世は諸行無常の世界だからです。
人を筆頭にあらゆる生き物、どんな物事でも永遠に不変なものはたった一つを除いて
存在しないからです。

昨年末、静岡県で一機の小型ヘリコプターが墜落し、乗っていたパイロット一名が残念ながら
亡くなりました。
実はこのパイロットは私の知っている人で、東日本大震災が起こった時、一緒に
民間ヘリコプターでの災害支援を行った仲間でした。

彼は関東の人でしたのでそれ以後、特に深いやりとりはありませんでしたが、
やはり知っている人が事故で無くなるのはとても悲しいものです。

今でも宮城県の避難所に救援物資を運んだ時、ヘリコプター同士での無線の会話の声を鮮明に
覚えています。

空を飛ぶ仕事をしていると、狭い航空業界ですので事故が起こった時、親交の深い浅いは
別として「知っている人」であることが多いです。
ですから私は空の世界に入ってから、知人がひとり、またひとりと何人も居なくなって
しまいました。

そしてかく言う私も、朝玄関を出るとき「行ってきます」と言いながらも、
「今日は、ただいま、と言えるかな…」とも毎日考えます。

もちろん航空機事故だけではなく、道中も車を運転しますし、歩いていたって人間には
どんな事が降り掛かるのかわかりませんよね。

そんな危機感を感じながら一日を過ごして家に「ただいま」と帰って来られた時、
とてもホッとします。

人は生きていることが決して当たり前ではないのです。

「朝には紅顔ありて 夕には白骨となれる身なり」は、浄土真宗本願寺第八代門主の
「蓮如上人(れんにょしょうにん)」が全国の門徒に宛てたお手紙「御文章」の一説です。

朝には血色の良い顔をして元気だった人が、夕方には白骨となってしまう…人間の儚い一生と
いうものは幻のようなものです。

人は必ずこの世と縁が尽きる時がきますが、それはいつなのかは誰にもわかりません。
私が先なのか、人が先なのか、今日なのか、明日なのか…それは老いていようが若かろうが、
定まらない境遇なのです。

 「人」に「夢」と書いて「儚(はかな)い」と読むのはどなたもご存じでしょう。
しかし、人が夢を見てなぜ儚いのか?…夢とは今では希望や目標のようなポジティブな
意味で使われることが多いのですが、実は「夢」とは暗い中でハッキリしない様…
つまり、まさに寝ている時に見る夢を指すのです。

ですからあまりハッキリしない、頼りにならない、不安定な、というところから
「儚い」なのです。

まさに人の世のことですよね。

人と会って別れる時に「さようなら」と言いますが、これを漢字で書くと「左様なら…」
と書くのを知ってましたか?

「左様なら…致し方なく」から来ていて、「それならば、仕方ない」つまり、どうしようも
ない状態、「人の死」から来ているそうです。

なので,元々人が亡くなった時に「左様なら…」と言っていたのが転じて、
生きている人同士が別れ際に「さようなら」と言うようになったんですね。


このように、人の一生とはとてもとても儚く、不安定、そして夢幻のようなものですから、
この世と縁が尽きた時、つまり自分が死んでその後を考える事の重要性を説かれたのが、
この「白骨章」なのです。

私たちはただこの世を不安定に生き、やがて死んで終わりではない。
ただ死ぬために生まれてきたのではない。
お浄土に往って仏となり、今度はこの世の人々を救う…そのために生まれてきたのです。
しかし、罪悪深重な私たち凡夫は自力では浄土往生できるはずがありません。
ですから、阿弥陀さまの願力不思議に頼るしかないのです。

阿弥陀さまは法蔵菩薩と名乗られていた頃、「生きとし生けるものすべてを救う」と誓われ、
大変な苦行の後に阿弥陀如来と成られその願いを成就されました。

そのお力を本願力と言い、その本願力に叶って私たち凡夫は浄土往生させて頂けるのです。
そのような偉大なる、人の思慮を超えた力なので、願力不思議と申すのですが、
阿弥陀さまの願いの成就とは私たち凡夫が救われるために信心を阿弥陀さまから頂くこと。
その信心を頂くこととは、つまり南無阿弥陀仏のお念仏申すことなのです。

言い換えれば、阿弥陀さまの願いが私たちの身の上に結ばれている姿こそが、お念仏する
私なのです。

だからこそ、「この儚く不安定で、いつこの世と縁が尽きるのかもしれない私たちは、
それを心に留め阿弥陀さまのお救いを頼み申し上げるために、お念仏申すべきである」…と
蓮如上人はこの白骨章を締めくくられています。

生きている内に大切なことを準備しておく…これを「平生業成(へいぜいごうじょう)」と
言いますがこれも蓮如上人のみ教えです。

冒頭で、諸行無常について述べさせて頂きましたがその中で、
「この世に永遠に不変のものはただ一つを除いて、無い」と申し上げました。

その「ただ一つ」の例外とは、仏さまのお救いであり、仏さまのみ教えなのです。

これはいつの世も、どんな時でも、誰に対してでも、絶対に変わることなく不変なのです。
ありがたいことですね。

終活という言葉がありますが、今生きているうちに阿弥陀さまから信心を賜り、お念仏申す
生き方も大切なことだと思います。


あなかしこ

善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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