皆さま、こんにちは。
あっというまに4月を迎えました。
ということは一年の4分の1が既に経過したわけですが、今年に入ってからも新型コロナウィルス関連
のことばかりが話題に上っています。
首都圏も先月21日で緊急事態宣言が解除されましたが、その途端にまたじわじわと感染者数が増えて
います。
想定内なのでしょうが、いったいこれをどれだけ繰り返せばよいのか、不安になっている方も多いかと
思います。
これといった明確な手立てを政府は打ち出さず、残念ながら首相のメッセージも国民の心には響いては
いませんし、ワクチン接種もいつになるのかは不透明です。
どちらかというと、国や政府は「国民頼み…なんとか耐えて下さい」的なのではないかと思えます。
こういうのを世間では時々「他力本願」という言葉で表す時があります。
人頼み人任せ、自分では努力しない…そんな時に使われる言葉ですが、これ実は全くの誤用なの、ご存知
だったでしょうか?
他力本願。
「他力」とは「自力」の対義語です。
しかし、自分以外とは「他の人」を指すのではなく、阿弥陀如来のことを意味しています。
つまり、他力とは阿弥陀さまのお力の事を意味しているのです。
そして「本願」。
本願とは、阿弥陀さまが法蔵菩薩と名乗られていた頃、あらゆることに悩み苦しみ、そして輪廻転生を
繰り返す私たち衆生の事を憐れんで、「必ず救う!」と、起こされた願いの事です。
全ての人々を必ず救うにはどうしたら良いのか…その手立てを私たちが想像もつかないほどのお時間を
掛けて、お考え下さった願いが「本願」であり、長い長い時間を掛けられた願いなので「五劫思惟の願」
とも言います。
劫(こう)とは仏教での時間の単位で、一劫は43億2000万年。
五劫とはその五倍なので216億年という事になります。
それだけ長く時間が掛かったのは、それだけ私たちの愚かさ、煩悩が深いからでした。
そんな愚かな私たち衆生を如何に修行無しで仏と仕上げ、浄土に連れて行くのか…それはそれはとても
困難な救済方法なのはもう想像できますよね。
でもそれを実現して下さったのです。
とてつもなく大変な修行をされ、その功徳を私たちに振り向けて下さる願いが完成し、法蔵菩薩さまは
阿弥陀如来となられ、その阿弥陀さまによる私たちを救済して下さるお力が本願力です。
私たちは自力で仏となることも出来ませんし、お浄土に往くことも出来ません。
ですから、阿弥陀さまのお力である「他力」のみによって救われる「本願」が他力本願なのです。
昔、電子機器メーカーのオリンパスが、広告に「他力本願から抜け出そう」というキャッチコピーを
使用したことがありました。
もちろんこれは完全な誤用ですが、これに対し真宗教団連合は「多くの門徒の心を踏みにじっている」と
オリンパスに抗議し、これを受けてオリンパスは謝罪をしています。
ですから、他力本願という言葉の正しい意味は阿弥陀さまのお救いの事を指すのであって、決して人任せ
他人をあてにするのではありません。
さて、ご讃題の「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水
へだてなし」は親鸞聖人のお作りになられた高僧和讃の中の一首です。
その意味は、「阿弥陀さまのご本願のはたらきにお遇いすれば、空しいときを過ごす人もなく、宝の海
のような功徳が満ちて、濁った水のような我らの煩悩も、往生成仏の妨げになることはない」という
ことです。
阿弥陀さまは大変なご修行をされ、私たちが仏になるために必要な功徳を南無阿弥陀仏の名号にすべて
おさめてくださいました。
煩悩はすべての真理を曇らせ見通せなくしてしまいます。
つまりは遮ってしまうのですが、この阿弥陀さまの功徳はそんな私たちの煩悩をものともせず、お救いの
光を私たちにお届け下さっているのです。
私たちは久しく輪廻転生を繰り返し、生死の苦海に沈み、空しく過ごしてきました。
しかしこの度阿弥陀さまの本願力にお遇いすることが出来、仏と成る身と定まったのです。
これをもってして、他力本願とは他人任せ人頼み、という言葉で表現するのはとんでもない間違いである
ということを、これでおわかりになって頂けたかと思います。
私のために、大変なご修行をされ、そこで得られた功徳を全部私に回し向けて下さった阿弥陀さま。
感謝しても感謝しても尽きませんね。
その御恩に報いながら手を合わせて日々ありがたく暮らしていきたいものです。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)