しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍(あらそ)ふ

(仏説無量寿経ー巻下 釋迦指勧 浄穢欣厭 :註釈版聖典 五十四頁)

皆さま、こんにちは。
一月に新型コロナウィルス感染の第三波が起こり、首都圏及び中部近畿県では二度目の緊急事態宣言下
となっておりました。
その効果か、感染者数も減り始め、二月末にて善教寺・一心庵のある愛知県は宣言解除となりました。

この新型コロナウィルスの怖さは、ウィルスそのものだけではなく「不安」や「差別」、そして「人を
疑う心」や「非難」といった、いわゆる「人の弱さ」をも攻撃して露呈させ、広めたことです。
オリンピックを控え、さらに新型コロナウィルスを抑え込んで一日も早く元の生活に戻すための方法を
話合い、決めていく国会の場では、「失言」や、失言をした人の後任者への過去の「失敗」、民間人
より接待を受けた公務員に対して「何を食べたのか?」などと言う、本質とはあまり関係の無い足の
引っ張り合い合戦が続いています。
いつからこの国は政治ではなく政局しかやらないようになったのでしょうか…

また巷では、マスクをしている人がしていない人を非難攻撃したり、そこまでしないにしても
あからさまな白い目で見たりします。
マスクをしない人はしない人で「面倒だから」「忘れた」「近所だから構わない」と、周りの人への
配慮が欠けた言動もあります。

医療従事者の皆様には本当に頭が下がる思いで感謝しかありませんが、それでも「コロナ感染のリスク」
を盾にして差別をし、親が医療従事者というだけで、その子供は幼稚園や保育園、学校へ来ることは遠慮
してほしいと、本当に悲しいことを言われることもあったそうですね。
これは言われた方も、言う方も悲しかったと思います。

「苦しみや悲しみのとき、人は弱さが出る」と言われますが、このコロナ禍、コロナ苦によって、本当に
人の弱さが出てしまっています。
でも、それが人であり、人たる所以なんです。

冒頭のお言葉、「しかるに世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ」は、浄土真宗での根本聖典である
仏説無量寿経と言われる経典の中のお言葉です。
「仏説」とは、仏さまが説いた…つまり「お釈迦様が説かれた教え」という意味です。
さらに言葉は続きます。
「この劇悪極苦(ぎゃくあくごっく)のなかにして、身の営務(ようむ)を勤めてもつてみづから給済
(きゅうさい)す。尊となく卑となく、貧となく富となく、少長・男女ともに銭財を憂ふ。憂思(うし)
まさに等し。屏営(びょうよう)として愁苦(しゅうく)し、念(おもい)を累(かさ)ね、
慮(おもんばかり)を積みて<欲>心のために走り使はれて、安(やす)き時あることなし」。
とお釈迦さまは仰られました。

長くなりましたが、意味は「ところが世間の人々はまことに浅はかであって、皆急がなくてもよいこと
=世俗の欲望を満たそうと争い合っており、この激しい悪と苦の中であくせくと働き、それによって
やっとい生計を立てているのにすぎない。身分の高いも低いも、貧しいも富むも、老若男女みな金銭の
ことで悩んでいる。それがあろうが、なかろうが憂い悩むことには変わりがなく、あれこれと嘆き苦しみ
後先のことをいろいろと心配し、いつも欲のために追い回されて、少しも安らかな時がないのである」
という、耳の痛いお言葉です。

でもよくよく考えてみますと、このお言葉は今から約2500年前のお言葉なのです。
2500年後の私たちは、不自由なく食べ物が手に入り、冬は暖かく、夏は涼しく過ごせ、遠く離れた
地にも空を飛んで短時間で着くことが出来、インターネットというツールで様々な情報をカンタンに
入手する事ができ、リアルタイムで世界中の人達とコミュニケーションを取る事が出来ます。
さらに教育も充実しており、望めばいろんな学問も学ぶことが出来る世に住んでいるんです。
にも関わらず、その本質は2500年前のまま…これを私たちはどう考えるべきなのでしょうか?

私は昭和生まれの古い人間ですので、「努力、根性、忍耐」を植え付けられて育ちました。
実際に辛い時や苦難の時はこの「努力、根性、忍耐」で乗り越えて来られたという実感を持っています。
しかし今の時代、「いまどき、努力、根性、忍耐?無い無い。古すぎる!あり得ない」と揶揄され否定
されます。
そしてそれを口にすると「根性論を持ち出した」と非難され、場合によっては「ハラスメント」として
犯罪者扱いされてしまうこともあるんです。

そこまで人として進化してきたというのなら、この釈尊の言われるお言葉には当然当てはまらない、
それこそ「いつの時代の話?」となるはずなのですが、見事に「はい、仰る通りでございます」と感じる
のはなぜでしょう?
いや、むしろそれすらわからない世になってしまったのでしょうか…?

2500年前とは、日本では縄文時代です。
今の私たちは、テクノロジーやシステムだけ一方的に進化し、一番肝心要の私たち自身は縄文時代から
何の進化も成長もしていない、ということを改めてここに反省しないといけませんね。
福祉だ平等だとは言いながら、耳にしながらも、結局それらは形骸化してはいないでしょうか。

もっとお釈迦様のありがたい教えに耳を傾け、反省し、その教えに沿う生き方をしてこそ初めて
「進化した」と言えるのではないでしょうか。

今月のお話は、そう言いながらも私自身も耳が痛いことであります。

南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏

善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)







 


 
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