皆さんこんにちは。
あっというまに九月が過ぎ、はや十月です。
お変わりはないでしょうか?
善教寺では、コロナウイルスの感染症予防の為、この秋の彼岸会の行事もやむなく中止と
しました。春のお彼岸に続き、とても残念です。
しかし、年明けの親鸞聖人の御命日の法要である「御正忌報恩講」は何としてでも開催する
つもりです。
この御正忌報恩講は浄土真宗では最も大切な行事なのです。
さて、今月の御讃題は、親鸞聖人の書かれた教行信証(きょうぎょうしんしょうから
頂きました。
教行信証…正しくは
「顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい」
と言います。
親鸞聖人の主著で、浄土真宗の教義体系が示されています。
私たちはその別名である「ご本典(ほんでん)」とお呼びしている、浄土真宗立教の根本聖典
です。
その中で「帰命」は本願召喚の勅命なり、とありますが、これは「衆生に帰せよという
阿弥陀さまのよびごえ」という意味です。
???な方もおられるでしょう。ここからゆっくりとご説明致します。
まず、私たちはすでに阿弥陀さまに救われている、お救いの対象となっている、というのが
浄土教の根本的且つ絶対的な考えです。
なぜ救われるのか?…それは、阿弥陀さまに帰命、つまり阿弥陀さまの何としても救う!と
いう大悲心、大いなるお慈悲のお心を信じ、全てをお任せし、お念仏申す身だからです。
お念仏とはもちろん「南無阿弥陀仏」。称名とも言いますので称名念仏とも呼ばれています。
そして、南無阿弥陀仏とは単なる「なもあみだぶつ」という文字ではなく、実は阿弥陀さま
から私への呼び掛け、呼び声なのです。
すなわち、南無阿弥陀仏とは「我にまかせよ。必ず救う。必ず浄土へと参らすぞ」と
阿弥陀さまが私によびかけているお声なのです。
従って、小さい声でぼそぼそお念仏申しても聞こえません。
大きな声で、ハッキリと「南無阿弥陀仏、なんまんだぶ」とお念仏すれば、そのお声は
私の耳に、頭に、心にしっかりと届くのです。
これを浄土真宗の有名な学僧である原口針水(はらぐちしんすい)和上(わじょう)という
方が「我れ称え 我れ聞くなれど 南無阿弥陀仏 つれてゆくぞの 弥陀(親)の呼び声」という
有名な句を残され、称名念仏は本願召喚の勅命であるということをお教えくださいました。
ですから、南無阿弥陀仏のお念仏とは阿弥陀さまの声をお聞かせいただくと同時に、阿弥陀
さまへの御恩報謝となるのです。
従って、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏するのは、「ありがとうございます」という
理解ではないのです。
ちなみに、この原口針水和上の「和上(わじょう)」とはとても位の高い学僧の方の称号
なのですが、善教寺の私の先代住職は、この原口針水和上の玄孫になります。
善教寺納骨堂前には、原口針水和上の石碑もあります。
もし機会がありましたら、お参り下さい。
南無阿弥陀仏 なんまんだぶ
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)