皆さんこんにちは。
今年の梅雨は本当にたくさんの雨が降りました。
そして降り過ぎて各地で多くの災害も発生してしまいました。
熊本南部の人吉では、本願寺人吉別院が水害に遭い、また数箇寺も浸水被害を被り、ご門徒
の多くも床上浸水などの被害に遭われています。
さらにこの水害で浄土真宗本願寺派の門信徒の方十二名がお亡くなりになりました。
謹んで哀悼の意を表すと共に、被害に遭われた方々には心から御見舞い申し上げます。
また、これらの水害で農作物にも影響があり、今年は野菜やお米が高くなりそうです。
高くなるくらいならまだしも、手に入らなくなってしまったら、私たちは生きていけません。
そこに来て、新型コロナウイルスの感染者数が爆発的に増え、『第二波当来』とも言われて
おります。
本当に平穏であった日々、いろいろなことが当たり前になっていた日々が遠い過去のように
なってしまいました。
私たちは、買いたいものがあれば、そのお店に生き、お金を支払えば当たり前に手にすること
ができる時代を生きてきました。
食べ物でもそうです。
スーパーやコンビニに行けば、値段は別として大抵のものが手に入りますし、飲食店に行って
欲しい物をオーダーすれば、それが当たり前のように出されます。
ですから、『ダイエットしてるから』とか、『もう食べられない』と自分で頼んでおきながら
少しだけ手を付けて残します。
そしてそれを咎められない世の中になってしまいました。
でもよく考えてほしいのです。
それらは、メニューに載っていた【食べ物】かもしれません。
そしてそれに単価が付けられていただけかもしれません。
しかし、その前に、【食べ物】である前に、動物や植物の“いのち”であったこと、想像でき
ますでしょうか?
今、テーブルに乗っている料理は、自分が今日を生き延びるために差し出された、多くの
“いのち”です。
その犠牲を頂いて、自分は今日を生き延びるのです。
もし自分が何かの命の為に体を切り刻まれ、それをひとつまみしただけで捨てられてしまった
ら、“いのち”を差し出したご自身は納得できますでしょうか?
つまり、自分一人のために、どれだけの犠牲や助けがあるのか?をよくよく考えるべきです。
冒頭に「 弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と
いうお言葉を頂きました。
これは、親鸞聖人がご生前、若い門弟の方達との間で交わされたお言葉などが記された、
歎異抄(たんにしょう)というご聖典からのお言葉です。
「阿弥陀さまが法蔵菩薩と名乗られ、衆生を救うために五劫という、想像もつかないほどの
長い間お考え下さった本願をよくよく考えてみますと、ひとえにこの親鸞一人のためだった
のです、と親鸞聖人は常々仰せになられていました」と、歎異抄には書かれています。
阿弥陀さまはご本願において、「十方衆生を救う」と万人に呼び掛けられています。
しかし、その呼び掛けを聞きうけるのは、一人ひとりの悩める「私」なのです。
ですから、南無阿弥陀仏のお名号に込められた「我にまかせよ。必ず救う。必ず浄土へ連れ
て行くぞ」という阿弥陀さまからの呼び声は、実はこの私ひとりの為だったのだ、という
親鸞聖人の心からの歓びの言葉であったと思います。
さらに親鸞聖人は「されば、それほどの業を持ちける身にてありけるを、たすけんとおぼし
めしたちける本願のかたじけなさよ」と続けられます。
「思えば、罪深い身であるこの私を、助けようと思い立って下さる本願の、なんとありがた
く、もったいないことでしょうか」と仰せになられるのです。
今、生かされている私の前に差し出されている“いのち”は、私が今日を生き抜くために、
阿弥陀さまからのおはたらきによって差し出されているのです。
それは、阿弥陀さまの「この世を目一杯生き抜けよ。そして生き抜いた後は、私が浄土へ
連れて参らすぞ」という阿弥陀さまの願い、ご本願なのです。
最初に≪五劫思惟の願をよくよく案ずれば≫と申しました。
五劫の劫(こう)とは、仏教での時間の長さを表します。
どれくらいの長さかと申しますと、私たち人間では想像もつかない長さ、と言われています。
でも、目やす位は知りたいかと思いますので概ねの長さを申しますと、「一劫」が43億2000
万年だそうです。
ですから、五劫とはその5倍ですので、216億年ということになります。
阿弥陀さまが法蔵菩薩と名乗られ、衆生を、つまりこの私を救うために、なんと、216億年
も考えに考えて下さったのです。
しかし、智慧者第一と呼ばれた法蔵菩薩様がなぜそんなに長く長く私ひとりをお救いになる
ために考えなければならなかったのか?とは、それだけ、私の迷いや罪が深いからなのです。
多くの命を差し出されているのに、「これを頂いて今日を生き延びよ」とおはたらきかけ
下さっているのに、「口に合わない」とか、「もう要らない」と私の為に犠牲になってくれた
“いのち”を平気で無駄にしてしまう。
それほど罪深い私なのですから、それはそれは長く長くお考えになられたと思います。
私が愚かで罪深いがために、阿弥陀さまには大変なご苦労をお掛けしてしまいました。
それでも慈悲深い阿弥陀さまは、罪深いどうしようもない私ひとりをお救いになるために
長い長い大変なご修行の功徳を全て私に振り向けて下さったのです。
それを知れば、ありがたく、かたじけなく、手を合さずにはいられませんね。
そうして私たちは手を合わせ、お念仏申すままに仏さまの御恩に報ずる、御恩報謝の生き方
へと転じられていくのです。
これらも全て、阿弥陀さまのおはたらきでございました。
どうか皆様、感染症予防は徹底され、ご油断なきよう、お気を付け下さい。
合掌
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)