宗祖・親鸞聖人は涅槃経の教えを引用され、一切衆生は大慈大悲のお心を
阿弥陀さまより賜ることによって、誰もが仏となる素質「仏性」がある、
と説かれています。
そこで鍵となるのが「信心」なのですが、信心は「自分が仏さまを信じる事」
と勘違いされている方が多いのですが、これは間違いです。
浄土真宗における信心とは阿弥陀さまより賜る大悲心のこと、すなわち、
私たち凡夫という一切衆生を必ず救い、仏とならしめ浄土に生まれさせ、
悟りを得させようという如来さまの願いを受容する姿勢なのです。
従って、私たちから起こしていくものではありません。
ですから、阿弥陀さまより賜るものですから「ご信心をいただく」という
表現をします。
さらに親鸞聖人は「罪悪深重の我々は、生まれつき仏性を持たず、
いくら学問を学び修行を積んだとしても、仏性という種は得られないが、
阿弥陀仏の慈悲におすがりして「南無阿弥陀仏」という仏性を授けられ、
他力、すなわち阿弥陀様の願いである信心が得られた時に初めて成仏できる」
と、信心仏性を説かれています。
ですから、そんな私でさえも仏さまは常に私に寄り添って下さっています。
「私」と言う字の中には「仏」と言う字が隠れています。
まあ、「にんべん」と「のぎへん」の違いがあるでしょう?とかいう野暮な
突っ込みは無しにして、素直に文字を見つめていると、やがて仏さまが
浮かんで見えて来ませんか?そして私の中に仏さまがいつもいて下さる…
そう思えませんか?孤独ではないですよね。
「孤独」という字の由来は、「鰥寡孤独(かんかこどく)から来ていて、
「鰥」とは61歳以上で妻を亡くした夫
「寡」とは50歳以上の未亡人
「孤(惸)」とは16歳以下の父親のいない子供...
「独」は61歳以上の子供がいない者
という、国家による救済対象となっていた身寄りの無い者の事を指します。
ですから、今の「孤立して独り…」というニュアンスとは異なります。
人は一人で生まれて、一人で死にます。
四苦と言われる生・老・病・死も、誰かに代わってもらうことは
決してありません。
全て自分一人で背負っていかなければなりません。
私たち弱い凡夫は、そんな不安に耐えて生きていけるはずもありませんが、
不思議と今日も、こうして生きています。
それは、仏さまがずっとそばに寄り添い、励まして下さっているからです。
悲しい時は一緒に悲しんで下さいます。
嬉しい時は一緒に喜んで下さいます。
だから「孤立して独り」という事は無いのです。
しかも、「あなたの事はちゃんとわかっているよ。
そんなあなたを決して見捨てない。ずっと寄り添っているよ」と
声を掛けて下さっています。
大きな声で「南無阿弥陀仏、なんまんだぶ」と唱えれば、自分の耳に
その声が聞こえますね。
それは、自分の声を通して阿弥陀さまが私に語りかけている証。
南無阿弥陀仏の漢字六文字は、私への全ての救いが備わっている、
無上の救済の手立てなのです。
だから、人は決して孤独では無いのですし、仏さまがいつも私の中にいて
下さり、見守り、励まして下さいながら、このような私にでも仏とならしめ
ようとして下さっています。
その御恩に報いる生き方をしていきたいですね。
合掌
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)