阿弥陀さまは、「すべての人々を救う」という尊い願いを起こされましたが、
その理由を、お心をお尋ねすると、あらゆることに悩み、迷い、苦しむ私たち
を見捨てないで、長いご修行の功徳を私たちに振り向けることを第一として、
「必ず救う」のだという大いなるお慈悲の誓願を成就して下さったのです。
「苦悩の有情」とは、あらゆることに悩み、迷い、苦しむ私を指します。
「有情」の字の通り、その悩みや迷い、苦しみは自らの感情から沸き起こり
ます。
そして最も多くの悩みや迷いは人間関係ではないでしょうか?
この世界で生きておりますと、人と接しないで生きていくことはほぼ無理で、
必ず誰かと接します。
残念ながら、その誰かは必ずしも自分にとって都合の良い相手ではないです。
元々、自分と他人とは、もっと言うと、家族でさえ物事の判断基準や好みは
異なります。つまりは、皆異なる定規をもって生きているのです。
異なる定規…異なる基準同士がぶつかるのですから、何かしらの衝突はあるに
決まっています。
仏説無量寿経という経典の中に「和顔愛語」という言葉が出て来ます。
「わげんあいご」と読みますが、「和顔愛語にして、意(こころ)を先にして
承問(じょうもん)す」と書かれています。穏やかな表情と優しい言葉で相手の
心を汲み取ってよく受け入れる」という意味ですが、これは阿弥陀さまが
法蔵菩薩と名乗っていた頃、すべての人々を救うという願いを成就するために
長い長い修行をされていた頃のそのご様子を表しています。
でも、和顔愛語がわからず、相手のことをわかろうとしても、わかることが
できない私。
相手のことをわからないままに相手を傷つけ、結果、自分も苦悩を抱えていく
という、いのちを生きてきた私。
でも、阿弥陀さまはそんな苦悩をかかえる私のことをわかって下さり、必ず救う
という願いを起こされた仏さま。
「あなたのことはすべてわかっているよ。ちゃんと昔からわかっているよ。
決して見捨てないよ。南無阿弥陀仏の喚び声となってずっとあなたに寄り添って
いるよ」と、苦悩の私を救うはたらきを、私に振り向けることを第一として、
南無阿弥陀仏の名号と仕上がり、ずっと私を喚び続けて下さっていたのです。
そうしてお念仏申すままに、私たちは和顔愛語の生き方へと転じられていく
のです。すべては、阿弥陀さまのはたらきかけなのです。
だからこそ、相手に壁を作るのではなく、橋を架けて相手の意を汲む姿勢こそが
お互いにわかり合える唯一の方法なのだと思います。
寒さ厳しき折、どうぞお身体ご自愛されますように。
合掌
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)