最近は「○○子」という女の子の名前、聞かなくなりましたね。
「子」という字は、「一・はじめ」から「了・おわり」まで、と書きます。
たとえば、「幸子」という名であれば、生まれてから、この世と縁が尽きる
まで、ずっと幸せであるように、という親の願いがそこに込められています。
いまは「キラキラネーム」とかいう名前をお子さまに付けることが多いよう
ですね。中には「え?外国人?」と思うような名前もたまに聞きます。
まあどんな名前でも、親の大きな願いを込めて付けられるのが子の名前です。
そこには文字だけでは表せない大きな意味と使命、そして期待が込められて
います。
そして、立派に育って欲しいという思いから、大きな愛情をもって、時には
優しく、時には厳しく育てられます。
あえて心を鬼にして、「お前なんかウチの子じゃない」と本心には無いこと
も子供には言うでしょう。
親鸞聖人は、お釈迦さまを父、阿弥陀さまを母とたとえられました。
私たちには親がいますが、全ての生きとし生けるものの親は仏さまです。
子である、とても危うい私をいつも仏さまは見守っていて下さいます。
しかし、悪いとわかっていながらしてしまったり、しなきゃとわかっていても
サボってしまったりと、そんな毎日を私は過ごしてしまいます。
そんな愚かな私のために、お釈迦さまはまるで父のように敢えて厳しい教えを
説かれます。「そんなことではお前は地獄に堕ちるぞ。今の世よりももっと
苦しい世界に行くことになるぞ」と。
それを怖れて私はお釈迦さまの言うことを守ろうとします。それでもなかなか
できない私…そんな私を極楽浄土に生まれさせようとするお釈迦さまの本心
なのです。
そんな愚かな私であっても、阿弥陀さまは母のように、「大丈夫だよ。心を
決めて、こちらに来なさい。私があなたを受け止め、守ります。怖れること
など何もないのです」と、いつも私に呼び掛けて下さっています。
そこまでして頂きながらも、私は仏さまを忘れて背を向けしまう…
でも、仏さまは親さまですから、常に私を見ていて下さいます。
振り向けば、いつも私に優しく微笑みながらそこにいらっしゃいます。
そんな、とてもとてもありがたい、親である仏さま。
様々な手立てや方便にて、智慧のない私に信心をお授け下さったのです。
一人で一人前になったつもりでいますが、仏さまたちから見たら、我々は
いくつになっても、よちよち歩きの、今にも転びそうな子なのです。
寒くなってきましたが、お身体ご自愛されますように。
合掌
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)