人は皆、いろんな意味で身を飾って生きています。
その飾りを見て評価する人もいれば、飾らないところを見る人もいます。
また、社会的立場によって地位という名の飾りをも持つことがあります。
人は必ずこの世と縁が尽きますが、大抵の人は死を恐れ、長生きを目指します。
それはいい事ですし、人として当たり前の本能でしょう。
私はご葬儀や法要の場で、ご遺族の方達と色々なお話をさせて頂く機会を頂きます。
皆さま、大切な方を失い、とても悲しまれています。そして死を恐れます。
そんな対話の中で、「死」についてどんな事を恐れているのかを伺いますと、
多くは、「自分が死んだ後どうなるのか?どこへ行くのか?」を
恐れているのではなく、この世との全て…愛する人だったり、地位だったり、
自身の身体であったり…を心配されます。
つまりは、死という事実よりも、あらゆるものとの別れを恐れている方が殆ど
なのです。
でも、親鸞聖人はおっしゃいます。
「大切な方達とは、やがて彼の地『浄土』にて再会するのだ…」と。
これを倶会一処(くえいっしょ)と申します。
先立たれた方は向こうで私を待っていて下さっているのです。
そう考えると、寂しいのはほんのいっときなのではないでしょうか。
阿弥陀さまは「私に任せなさい。必ず救うよ。何も心配いらないんだよ。
道に迷うこともないんだよ。裸のまま、家(浄土に)帰っておいで」と、
ずっと願い、そう呼びかけて下さっています。
その願いを、心から受け止めることができれば、様々に身を飾っている
自分自身に気づき、何も持たなくてもいい、何様でもない、
自分を他に主張しなくともよい、あらゆることから解放された
無上覚という、この上ない覚(さと)り、つまり、本当の裸の自分に遇える、
それこそが私である、と気付くのです。
人によく評価されようと飾っても、
自分を大きく見せようと飾っても、
その飾りはやがて重くなって邪魔になります。
何も飾らず
何様でもなく
そのまま、ありのままでいることが何よりも
大切なのだと、親鸞聖人はそう教えて下さっています。
どなた様も実り多き月でありますように。
合掌
善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)