弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて...
無上覚をばさとるなり
…正像末和讃
(註釈版聖典六〇〇頁))

人は皆、いろんな意味で身を飾って生きています。
その飾りを見て評価する人もいれば、飾らないところを見る人もいます。
また、社会的立場によって地位という名の飾りをも持つことがあります。
人は必ずこの世と縁が尽きますが、大抵の人は死を恐れ、長生きを目指します。
それはいい事ですし、人として当たり前の本能でしょう。
私はご葬儀や法要の場で、ご遺族の方達と色々なお話をさせて頂く機会を頂きます。
皆さま、大切な方を失い、とても悲しまれています。そして死を恐れます。
そんな対話の中で、「死」についてどんな事を恐れているのかを伺いますと、
多くは、「自分が死んだ後どうなるのか?どこへ行くのか?」を
恐れているのではなく、この世との全て…愛する人だったり、地位だったり、
自身の身体であったり…を心配されます。
つまりは、死という事実よりも、あらゆるものとの別れを恐れている方が殆ど
なのです。
でも、親鸞聖人はおっしゃいます。
「大切な方達とは、やがて彼の地『浄土』にて再会するのだ…」と。
これを倶会一処(くえいっしょ)と申します。
先立たれた方は向こうで私を待っていて下さっているのです。
そう考えると、寂しいのはほんのいっときなのではないでしょうか。

阿弥陀さまは「私に任せなさい。必ず救うよ。何も心配いらないんだよ。
道に迷うこともないんだよ。裸のまま、家(浄土に)帰っておいで」と、
ずっと願い、そう呼びかけて下さっています。
その願いを、心から受け止めることができれば、様々に身を飾っている
自分自身に気づき、何も持たなくてもいい、何様でもない、
自分を他に主張しなくともよい、あらゆることから解放された
無上覚という、この上ない覚(さと)り、つまり、本当の裸の自分に遇える、
それこそが私である、と気付くのです。

人によく評価されようと飾っても、
自分を大きく見せようと飾っても、
その飾りはやがて重くなって邪魔になります。
何も飾らず
何様でもなく
そのまま、ありのままでいることが何よりも
大切なのだと、親鸞聖人はそう教えて下さっています。

どなた様も実り多き月でありますように。

合掌

善教寺住職
釋 一心(西守 騎世将)





 


 
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