明けましておめでとうございます。
皆さま、健やかに新年をお迎えのことと慶賀に存じます。
どうぞ今年も念仏相続されていかれますよう、念願致しております。
さて、平成28年熊本地震で全壊し、しばらく更地のままであった善教寺は、いよいよ今月
26日に本堂、庫裡とも上棟と相成ります。
ここに至るまで、本当に長い道のりでした。
地震の年、急遽私が得度させて頂きお寺を継ぐ事となり、剃髪し僧侶となりました。
翌年、本願寺の教師資格を授与され、善教寺の住職を継職。
再建の為に奔走する日々でした。
積極的に再建をしようとしない当時の一部門徒総代達と大喧嘩し、また私の足を引っ張り
嫌がらせをしてきた前住職の寺族達とも決別しました。
孤立無援かと思いましたが、ありがたくも、そんな不器用な私を応援して下さるご門徒さま達
の後押しもあり、やっとここまで辿り着きました。
1月25 日に上棟、その後建物の工事が続きます。
この工事により、お墓参りに来られる皆様にはご不便をお掛けしますが、宜しくご理解のほど
お願い致します。
さて、「他力本願」という言葉があります。
これは「物事を何でも他人頼みにすることを目論む」という、あまり良い意味では使われない
言葉ですが、これはとんでもない誤用なんです。
実は私たち衆生は、あらゆる仏さま達から「救う事難し」と見捨てられた命なんです。
そりゃそうですよね。
修行も勉強もせず、自分勝手で人のいう事なんか聞きゃしない。
いろんな欲望をもった煩悩まみれの凡夫も凡夫、泥凡夫です。
ですから私たちは真実の心すら持てません。
そんな私たちを「放っておけない。決して見捨てない」と、たった一人の方が立ち上がって
下さいました。
その方はとある国の国王だったのですが、実は自国の民が同じ国の者同士争い合い、物を奪い
合いしている現状を嘆き、国を捨て、王位を捨て、世自在王仏(ぜじざいおうぶつ)という仏さま
に弟子入りされます。
その時の名前が「法蔵(ほうぞう)菩薩」なんです。
そして、この争い合い、奪い合いをする衆生をどうしたら救う事が出来るのか、を考えます。
どれくらい考えたのかというと、五年でも五十年でもなく「五劫(ごこう)」という時間を
掛けて考えました。
劫(こう)とは仏教でいう時間の単位です。
一劫は、幅四十里、奥行き四十里、高さ四十里の岩があったとします。
今の単位で言うと、幅160キロメートル、奥行き160キロメートル、高さ16万メートル
(ほぼ宇宙…)の大きな大きな岩です。
そこに、百年に一度天人が降りて来られて、羽織っている羽衣でサッとその岩をひと撫でして
また天に戻って行かれる。
これを永遠に続けていくとやがてその巨大な岩は削れてなくなってしまう。
これが「一劫」だそうです。
これをもっと別の表現をしている資料もあります。
これによると、「一劫は、43億2,000万年」とありました。
で、私はヒマな時に計算してみたんです。
天人は100年に一度天から降りてくるのですから、43億2000万÷100=4320万回、岩を撫でる
計算になります。
そして、160キロメートル=16万メートルですから、16万メートル÷4320万回=3.7㎜です。
つまりひと撫でで3.7㎜削れる計算になります。
どうでもいいですけどこれ、結構な破壊力だと思いませんか?
まあ、これが一劫です。
その五倍が五劫ですが、法蔵菩薩はとんでもなく長い時間、どうしたら煩悩まみれの業の深い衆生
を救えるか考えて下さったんですね。
そしてついに一切衆生を救う四十八の願いである四十八願を起こされます。
これら一つ一つの願いには、どうやって衆生を救うのか、が要となっていますが、その最後には
いずれも「もし叶わなければ、悟りをひらかない。仏にはならない」と誓われていますので、誓願
とも言われます。
しかし、その願いはただの願いですから、今度はこれを現実のものとする為、法蔵菩薩は長い長い
修行に入られます。
これを「兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行」と言います。
兆は「国家予算○○○兆円規模…」などで聞かれるように億の次の単位で、10の12乗です。
載はさらに八つ上の単位で10の44乗という大きな数字なので現実世界では使われない単位です。
ここまででとてつもなく長い時間なのに、更に「永遠」の「永」とまた出てきた「劫」をくっつけ
て、もはや私たちには理解不能な時間の長さを表しています。
それだけの長い時間を掛けて修行をされ、遂に私たちをお救い頂く場であり、この世と縁が尽きた
後に生まれる場所であるお浄土を建立されました。
法蔵菩薩は自らが煩悩まみれの衆生を救済する仏=南無阿弥陀仏という名号の仏さまとなられて
我ら衆生に救いの光を当てて下さっているのです。
仏さまと成られたのですから、まさに誓願成就され、すでに救済が始まっているんです。
これ、何が言いたいのかと申しますと、一般的に仏教では衆生が仏となるには、厳しい修行をし
多くの功徳を積まないと仏には成れない、とされています。
故に修行も何もしない私たち衆生は「救えない」と諸仏方から見捨てられたんですね。
そんな正しい考えを持たない、また持ったところで修行も続けられない私たち凡夫の代わりに、
阿弥陀さま=法蔵菩薩は四十八願を起こし、大変な修行をして下さったのです。
その修行で得た功徳の全てを私たちに振り向けて下さったおかげで、私たちは救われる。
つまり、自力で仏さまになる事ができない私たちが救われるには、阿弥陀さまの力、他力によって
のみ救われるんです。
本願とは阿弥陀さまが私たち衆生を救いたいという願いのことですから、他力本願。
これが正しい意味です。
故に、人をアテにして自分が楽をするという意味ではないんです。
浄土真宗では、絶対他力のお救いですから、自力修行を否定します。
「我にまかせよ そのまま救う」という阿弥陀さまのお呼び声を聞くことが、阿弥陀さまへの感謝
の報いであり、そのお呼び声を自然と聞くことが「南無阿弥陀仏」のお念仏でありました。
どうかこの一年、共にお念仏申しながら阿弥陀さまに報いて参りましょう。
南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏
善教寺 住職
本願寺派 布教使
釋 一心(西守 騎世将)